牛一が記した、ガラシャの最期

牛一は、ガラシャの最期を実際に見たわけではありませんでした。噂話や推測のもとに書かれたものです。

また、ガラシャがキリシタンだったことも知らなかったようです。したがって、この描写は、伝聞情報を軸としながらも、情報が不足している部分を推測で補った想像の産物と位置づけられます。

ガラシャの自害については、刀を胸に突き立てるという伝統的な武家の女性の仕方で行われたと牛一は記しています。

最期を見ていないはずの牛一の記述を逆にとらえると、その自害の仕方が一般的だったということです。

では、実際はどうだったのでしょうか。信憑性の高い史料と位置づけられる「忠興公譜」では、細川ガラシャの最期について、次のように書かれています。なお、ここで出てくる介錯を務めた小笠原少斎は、細川家の家老であった人物です。

「小笠原少斎よ、介錯を頼む」という命が下ると、少斎は恐れ多くも承諾した。長刀を手に取ると、まず老母の命を絶った。その後、ガラシャはみずからの手で髪を丁寧に巻き上げた。

少斎が「そのままではいけません」と申し上げると、ガラシャは「わかりました」と言って、胸元の小袖を両側に静かに開いた。

敷居を挟んで控えていた少斎は「御座の間に足を踏み入れるのは恐れ多く存じます。もう少しこちらへお進みください」と申し上げた。

ガラシャが敷居近くの畳の上に座り直すと、少斎は長刀でその胸を一突きにした。人々は「さすがは明智光秀の御息女」と、その凜とした最期に感嘆の声を上げた。