台所や屋根の上で腹を切った武士たち

続いて、細川家の家臣たちの切腹を見ましょう。同じく「忠興公譜」には次のような逸話が記されています。

河北石見は家臣の河北六右衛門の介錯をしたあと、みずからも切腹した。六右衛門の息子・助六は、ちょうどその日、丹後(現在の京都府北部)の見回りからの帰りであったが、火の中に飛び込んで命を絶った。

金津助十郎も切腹しようとしたが、少斎や石見が「そなたは切腹しなくても、決して不名誉なことではない」と止めた。

しかし彼は、「自分は明智殿に従ってここまで来たのだから」と主君への忠義を貫いて自害した。その振る舞いは、まことにみごとなものだった。

彼はわずか10石と3人扶持の家臣であったが、その忠義に報いるため、細川家ではその子孫に家督を継がせ、知行を与えた。

 

細川忠興とガラシャが暮らした「勝竜寺城」(写真提供:Photo AC)