脳天をガンと叩かれた
俳優座養成所卒業後、村井さんは自由劇場の創立メンバーに名を連ねる。
――14期には串田和美君、吉田日出子、佐藤信とか、芝居がよくわかる人たちがいて、彼らが「自由劇場」を作るから一緒に行こう、と。誘ってくれたのが同期生の斎藤憐。のちに『上海バンスキング』を書いた劇作家です。「國夫、一緒に来いよ、心配だから」って。
自由劇場では『赤目』という白土三平の劇画を舞台化したのとか、『ヘンリー四世』というピランデッロの芝居に出ました。
ここには4年ほどいましたが、小劇場ではとても食べていけないので、テレビや映画のほうに行くんですが、東映では鶴田浩二さん――歌舞伎の二代目尾上右近君のお祖父ちゃんですね――に可愛がっていただきましてね。「挨拶に来ない」ってあるスターさんに僕が絡まれてるのを、救っていただいたりしました。
そうこうしてるうちに、ある芝居を観て、もう脳天をガンと叩かれたような経験をするんです。1973年の西武劇場オープニング記念、井上ひさし作の『藪原検校(やぶはらけんぎょう)』。
そこに俳優座の同期生だった高橋長英と太地喜和子が出ていたんです。こんな素敵な舞台に彼らが出ているのかと思うと、もう悔しくてね。叩きのめされたようで、しばらく椅子から立ち上がれませんでした。やっぱり舞台へ戻ろうと思いましたね。