母に連れられ女剣劇を見に
今も活躍する多くの名優たちが輩出した劇団俳優座の俳優養成所は、第16期(1967年)卒業をもって閉校したが、村井國夫さんはその第15期生。のちに、《花の15期》と呼ばれる錚々たるメンバーが揃っていた。
中でも村井さんは、堂々たる体躯、整った鼻梁、艶のある低めの美声で人気を集め、今もそれは変わらない。
その昔、私が村井さんの舞台を観たのは、帝劇の『レ・ミゼラブル』の冷酷な警部ジャベール役と、倉庫を改装した小劇場ベニサン・ピットの『蜘蛛女のキス』での優しいゲイのモリーナ役という、まったく対照的な二役で、その変わり方に目を瞠る思いをした。まずはその少年時代の話から。
――僕は中国の天津市で生まれました。というのは父がそこで建設会社をやってましたからね。僕が生まれた翌年に敗戦になって、親父は捕虜ですよ。お袋は五人の子供を抱えて引き揚げてきたんです。僕をおんぶしてね。お袋は実家のある佐賀に戻り、美容師をやって僕たちを育ててくれました。
親父が戻ってきたのは僕が小学校六年の時ですけど、ずっと後になって僕が渋谷のPARCO劇場で芝居してたら、「僕、村井國安(くにやす)の息子です」というのが楽屋に現れてね(笑)。中国に勾留されていた日本の女の人との間に生まれたらしい。面白いことをする人ですね、親父は。やってくれます。
母は92歳で亡くなりましたけど、吉行あぐりさんが目標だと言って、90過ぎまで美容師をやっていました。母が若い頃は佐賀に何の娯楽もなかったんで、女剣劇に僕を連れて行くわけですよ。
当時、筑紫美主子さんという白系ロシアルーツを持つ女剣劇の役者さんがいたんです。とっても素敵でね。それと伊東舞踊団という、宝塚のような女性だけの劇団があって、それは姉が好きで、僕も連れられてレヴューというのをずいぶん観ましたね。
第1の転機と言えば、僕が県立佐賀高校の部活で演劇部に入って、辻萬長さんに出会ったことでしょうね。入部を勧めたのはお袋で、僕のちょっと神経が細くて人見知りが激しいところから、演劇でもさせたらいいかと思ったんでしょうね。多分、顔もいいしと。(笑)