一本の光明
数日後。入浴中に鏡を見て、髭がまったく生えていないことに気づいた。驚きである。いままでなら、絶対に1センチメートルは伸びていたはず。こんなにあっさりあの忌々しい髭がなくなるなんて。もっと前にやっておけばよかった。
この時、20年以上のルーティンワークが突如として消滅した事の重大性を、私は理解していなかった。以来、なんだか落ち着かないのである。面倒で少し恥ずかしい作業がなくなったというのに、一抹のさみしさすらある。
風呂場で、リビングで、鏡に顔を近づけながら狙いを定め、毛抜きでプチップチッと髭を抜く作業が恋しい。短すぎるとつまめないので、そういう時は目立たないかとドキドキしながら一晩髭を寝かせたものだ。運良くつまめた毛が抵抗を試みながら皮膚もろとも引っ張られ、もうダメだと観念したあたりで手綱から手を放すようにプチッと抜けるあの快感を、私は無自覚に棄ててしまった。
虚無感に駆られ、「なにもない」ことを確認するためだけに鏡を眺めること1週間。ある日、そこに光明が差していることに気づいた。白髪の髭が一本生えていたのだ。うおー! 抜ける!
うっとりしながら私は白髪に毛抜きを当て、一気に引き抜いた。なんという幸せ。この感触と達成感を私は渇望していた。
白髪はレーザーに反応しないので、次の脱毛で根絶されることもない。これからも私を楽しませるためだけに生え続けてくれるだろう。ありがとう、白髪の髭。
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きのうまでの「普通」を急にアップデートするのは難しいし、ポンコツなわれわれはどうしたって失敗もする。変わらぬ偏見にゲンナリすることも、無力感にさいなまれる夜もあるけれど、「まあ、いいか」と思える強さも身についた。明日の私に勇気をくれる、ごほうびエッセイ。






