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祖父の葬儀の時にわかった数奇な生と死

母の父親(私の祖父だが)は、若い頃、新潟から出てきて洋書で有名な書店に勤めた。その後、深川の自宅で印刷業を始め、英文の名刺が作れると重宝がられた。しかし、英語を話せると思いきや、外国人に英語で東京駅を聞かれ、「トウキョウステーション、あっち、あっち」と、道順を英語で説明できず、彼方を指さした、と私の母は話していた。

祖父は大相撲が大好きだった。戦前、国技館は歩いていける距離にあり、友人と国技館に行くときは、自ら友人の分までおにぎりを握り、入場開始から観戦。近所には結婚した力士の家があり、空襲でその家に焼夷弾が落ち、「助けてくれ」と叫びながら力士が出て来たら、「相撲とりのくせに、助けてくれとはなにごとだ!」と叱った。祖父や母の世代の下町の人は、何故か力士のことを「お相撲さん」と言わず、「相撲とり」と言っていた。

東京大空襲で深川の自宅兼印刷所は全焼し、別の場所に引っ越してから、祖父は再び自宅で印刷所を始めた。

祖父は70代になると認知症の症状が現れた。祖父は妻(私の祖母だが)と息子家族(私の母の弟と家族)と暮らしていた。祖父の認知症の症状の一つが、女性を見ると「美人ですね」と言うことだった。祖母は、「近所の奥さんは本気にして喜んでいる」と話していた。私の母にも母の妹にも「美人ですね」と、祖父は言う。私は正月に祖父に会い、「美人ですね」と言ってもらえると思ったら、「お前は調子がいいね」と言われた。孫と分かったらしい。

祖母と母の弟と家族は、祖父の徘徊にはとても困っていた。

ある日、祖父はどうやって辿り着いたかは不明だが、自宅から離れた大きな公園まで行き、そこの階段から落ちてしまった。見ていた人が救急車を呼んでくれた。頭を打っていて、病院に入院したが2日後に亡くなった。

祖父の葬儀には、祖父の生まれ故郷から親戚の人たちが参列。精進落としの席で、階段から落ちたことを悔やむ祖母に、親戚の人たちが慰めの言葉をかけていた。

その中の一人が、「そういえば彼は、身重の母親が土手から川岸に下りる階段から落ちてしまい、そのショックで生まれたのだ。階段から落ちて生まれ、階段から落ちて死ぬとは珍しい人だ」と言った。私が親戚の人に聞いたら、当時の女性たちは、川岸に下りて、畑で採れた野菜を川の水で洗っていたそうだ。

しんみりとしていた雰囲気が、がらりと変わり、祖父の面白いエピソードを話す人たちもいて、和やかになった。私の母と母の妹は、「ユニークなお父さんだったね」と話していた。

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