「あなたたち、なにしてるの!」

 ハルが予想したよりもはるかに早く、三人は、よりにもよって担任の櫻井先生にみつかってしまった。

 若松町の小劇場で、紅が大好きだという布袋劇(ポテヒ)を見るまではよかった。布袋劇は台湾の伝統的な人形劇で、紅の話では、ほんとうは廟(びょう)や台湾人たちの住む地域で演じられる台湾語の演目のほうがはるかによいとのことだったが、はじめて見るハルには日本語のその舞台も心動かされるものだった。

しかし、劇場をでて、大和橋にほど近い喫茶店に入った瞬間、後ろから歩み寄ってきた櫻井先生に呼び止められた。

――女学生としての本分は……。ここはあなたたちがきていいところじゃないの。

ハルは女学生だったころと同じようにほとんどの注意をききながしていた。

櫻井先生が注意だけで穏便にすまそうとしていることが、経験的にハルにはわかった。たぶん、十年前なら思いっきり反発していただろうけれど。

そう思って朝子の顔を見ると、いかにも不満げな表情で、いまにもいい返しそうだった。

――ああ、だめ、いまじゃないの。

そう思ったが手遅れだった。

「先生にはわたしたちの気持ちはわからないでしょ! 演劇を見て、喫茶店で語らうことのどこが女学生の本分に反することなのか、わたしにはさっぱりわかりませんわ」

「一生するなといっているわけじゃないの。卒業したらあなたたちは自由でしょう?」

「いまだって自由ですわ。かのジャン=ジャック・ルソー氏も、すべての行動の源には、自由な人間の意志にあるっておっしゃっていますわ」

 櫻井先生は、叱りつけるような口調をやめて冷静な声でいった。

「では、飯田さんは、自由な行動を改める気持ちがない、ということですね」

「ええ、明日にもまたくるかもしれませんわ」

 紅が朝子のセーラー服の裾を引っ張って、ちょっと、いいすぎちゃうん、と小声でいった。

「仕方ありませんね。校長に報告してご判断をあおぐことにします。わたしも用事がありますから、いちいち送ってはいきませんが、今日はどこにも寄り道せずに寮に帰ること。いいですね」

 朝子は、ぷいっと横を向いて、なにも返事をしなかった。ハルはあわててうなずくと、朝子の手を引いて喫茶店からでた。こんなことで退学処分にでもなったら、あまりにもかわいそうだ。

すぐ紅が追いかけてきた。

「ごめん、うちが勝手いったばっかりに、青山さんまで巻きこんでしもうて……」

 申し訳なさそうな表情を浮かべる紅の背中をなぐさめるようにさすると、ハルは、大丈夫、あたし停学になったこともあるのよ、といった。

「青山さんが? よかった! わたしたち、いいお友だちになれそうね」と朝子は何事もなかったかのように笑った。

「あんたはちょっとやりすぎや!」と紅が朝子の背中を叩く。

 軽く咳(せ)きこんだ朝子を見て、ハルは苦笑した。

 ――潜入の翌日に退学じゃ、ほんとしゃれにもならないわね。

(続く)

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