愛と執着

では、「執着」とは一体何なのでしょう。本来「執着」とは仏教から来ている言葉のようです。大辞泉には「執着」についてこう書かれています。

一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。「金に執着する」「執着心」

(写真提供:Photo AC)

ストーカーや毒親は、まさしく「愛」ではなく、相手の存在に囚われています。相手を「愛」しているのではなく、「執着」している。ゆえに、相手の気持ちや意図は無視されています。つまり、ストーカーや毒親にとって、「相手」は一人の人間ではなく「執着する対象」にすぎません。執着する対象には、「金」や「物」がありますが、そういったものと並行するように、相手の存在があるのです。

執着をもっと分解してわかりやすく表現してみましょう。

それは端的に言うと「失うことを怖れる」感情です。人が何かに執着するとき、最大の興味関心事は「いかにして失わないか」に向けられます。失う主体は「自分」ですから、相手に執着しているときは、実は自分のことしか考えていないことになります。

「執着」が「愛」にならないのは、まさにこの点です。「愛」は自分のことだけ考えていても「愛」にはなりません。相手の気持ちや、相手にとって最良のことを考えられるようになって「愛」は成立するのです。だから「愛」には相互性があり、「執着」は一方通行なのです。それゆえ、ストーカーはいつまで経っても相手の「愛」は得られませんし、毒親はいつまで経っても「子」の愛を得られません。