愛に似て非なるもの、愛もどき
基本的に、「愛」と「憎しみ」は根底が同じものであると私は考えています。人が「愛」を求めた瞬間に、心の中に「愛のたまご」が生まれています。そして、それが「愛」にも「憎しみ」にもなりうるということです。「愛」と「憎しみ」は兄弟のようなものなのです。
この「愛のたまご」は、「憎しみ」に変化するだけではありません。「愛」に成就しなかった場合、「愛に似て異なるもの」になります。それは時に「歪んだ愛」などと表現されることもあるでしょう。しかし、私は敢えてそれを愛とは区別し、「愛もどき」と名付けたいと思います。
「愛もどき」と言われても、なかなかピンと来ないかもしれません。
そのため、例として二つ挙げたいと思います。一つは「ストーカー」、もう一つは「毒親」です。どちらも、「愛のようなもの」が根底にありますが、それは真の愛ではありません。だから問題となるわけです。また、この「愛もどき」と「愛」の違いについて考えれば、愛の正体を解き明かすこともできるかもしれません。ではそれぞれの例について考察していきましょう。
・ストーカー
ストーカー自身は、ストーキングしている相手のことを「愛」していると考えているかもしれません。以前交際していた相手がストーカーになるケースがあるのも、このためでしょう。しかし、ストーカーが相手に抱いているのは、真の「愛」ではない。もし真の「愛」なら、何も問題にはならないはずです。
ところが、ストーカーは、相手のことを攻撃し、憎み、場合によっては殺傷する可能性すらあります。そして、相手は恐怖に打ちのめされています。これが「愛」であるはずがありません。ストーカーはむしろ決して相手の愛を得られない存在なのです。
・毒親
親子の間に一般的に「愛」は存在すると言えるでしょう。しかし、全ての親子の間に「愛」が存在するわけではありません。時には憎しみ合い、傷つけ合うことすらあります。また、親殺し、子殺しといった悲劇は、古代からその心理についても語られてきているテーマです。ここでは「毒親」について取り上げたいと思います。
毒親は、おそらく子供に「愛」を感じているつもりなのでしょう。しかし、その実態は本来の「愛」ではない「愛もどき」としか言えないものです。だからこそ、毒親に育てられた子供は、親について複雑な思いを持つことになります。それゆえ、本来「愛」の対象であるはずの親が、憎しみの対象やただただ不快な存在となります。
ストーカー、毒親、この二つは非常によく似ています。そしてこれらは「愛」ではなく「愛もどき」です。これらに共通したものを洗い出していくことで「愛」の本質に近づくかもしれません。