2023年6月、出国日が目前に迫る中、私はパソコンを膝に乗せ、改めて『輪るピングドラム』を視聴した。学生時代をネタにするにあたって、否定も肯定もできず、人生と一緒に持て余していたあの言葉を避けては進めなかった。向き合い、解釈し、掴み直すことで初めて、モラトリアムの出口ではなく社会の入口に立てるのではないかいう、仄かな期待があった。

夜中に第一話を再生し始め、最終話と共に朝を迎えた。物語は一文字も進まなかった。私は泣きも笑いもせず、暗くなったテレビ画面にぼやけて映る、満ち足りた顔の女と向かい合った。

作中で、何度も何度も、時には悪夢のように繰り返されるあの言葉。何者にもなれないという、私が私にかけた呪い。

あれは断言でも、怠惰な私への断罪でもなかった。

監督から視聴者へ、彷徨えるモラトリアムへの、問いかけであり挑戦だったのだ。

この作品が好きなのは、登場人物たちがクライマックスで社会的に大成功したり、他者から多いに尊敬を集めたりなんていう風に、結末が即物的な栄誉にならないところだ。

成功しなくたって、素晴らしくなくたって、どう考えても迷走していたっていい。ナンバーワンでもオンリーワンでもなくても、今日をひたむきに生き、明日を笑って迎い撃てるなら、きっと人生は楽しい。

希望、本心、愛。登場人物たちは様々な喪失の中で、今の自分を形づくる、眩いものを見つけていく。

明日も生きようと、顔を上げる意味になるもの。昨日の自分をほんの少しだけ許してやるのに必要なもの。拭い去り難い苦々しさを伴いながらも、過去も未来も現在も等しく抱きしめてやれるような、愛という名の小さく眩い幸福が、最後にはある。

「愛された子どもは、きっと幸せを見つける」

そんなセリフに頬が緩んだ。幸せだと思った。こんな作品に出会えて、あの言葉と共に生きられて。そして今、二十一歳の夏に、その意味を更新できて。

これから書く物語のテーマは「克服」になるだろう。確信と共にキーボードを叩きだした。

そこから初稿の完成まで、一週間もかからなかった。羽田空港へ向かう直前まで文字を打ち続け、イスタンブール行きの飛行機では、温かな疲労感の中ぐっすりと眠った。

そしてその原稿は、数年を経て思わぬ形で日の目を見ることになり、私は改稿中も『輪るピングドラム』を一話から流しながら、過ぎ去った日々を懐かしんだ。