
夢の外側(第五回)
3 不思議な彼女
日曜日、千景(ちかげ)の部屋には黒木衣里(えり)もいた。
駒子(こまこ)が自分だけであの映画を観たくないからと千景を誘い、それなら誰か呼んであれこれつっこみながら観たらえんちゃう、と千景が提案して、年に数回ごはんを食べに行く友達グループの一人である衣里に連絡した。
衣里は映画が好きで、国も時代も問わずいろんなタイプの映画をよく観ている。それに確か、この監督が二〇〇〇年ごろに撮った映画に好きな女優が出演していて、そこで着ているチェックのワンピースがかわいすぎて古着屋で似たのを探したけどこれっていうのが見つからなかったと言っていたのを、駒子が覚えていた。衣里は十人ほどいるごはん友達の中でいちばん若い三十四歳で、世代の感じがばらけてるほうが感想もおもろそうやし、と千景は言った。
電車を乗り継いで昼過ぎに着いた衣里は、手土産のレーズンサンドを千景に手渡した。
千景の部屋は、いつもよりは片づいていた。駒子のよりも千景の部屋にあるテレビのほうが大きいのでこちらにした。今日のために片づけてくれたのかと想像して負担をかけてしまったかもと駒子は思い、自転車で五分ほどの場所にできた店まで行って石窯(いしがま)で焼いたピザを二種類買ってきた。
「へえー、こまっくさんのお母さんに関係ある人がモデルだったの? 年代的には、そうか。こまっくさん、東京だしね」
と言う衣里は茨城の出身で、大学から東京に住んでいる。
「モデルって言われてるけど、設定だけ使って全然違う人になってる感じ」
三人とも画面が見える位置にテーブルと椅子を置き直し、ピザを並べながら、駒子は母の花屋に買いにきてたバンドの人が書いたエッセイが原作で、と、ざっくり経緯を説明した。
「そういうの聞くと、東京で育った人だなあ、って思っちゃう。ときどき聞くもんね、自分や親の同級生に有名な俳優とかミュージシャンがいるって。お姉ちゃんが雑誌の表紙もやるようなモデルって人もいたなあ」
衣里も準備を手伝いつつ話した。
「その当時ちょっと交流があっただけで、親しい付き合いとかじゃないよ」
「まあ、自分が東京に十五年以上住んでても有名人と知り合わないけどね」
「東京いうても広いからなあ。家と職場往復してるだけやし」
「行動範囲が違うというか、東京は何層かになってて別の層に存在してるんじゃない? 地図上は同じ場所にいても、見えないんだよ、こっちからあっちも、あっちからこっちも」
「ほんとにそうなのかも」
適当なことを話しながら、ピザ付き映画鑑賞会に向けて会場が整えられる。
「千景さんちは、意外にテレビ大きいね」
衣里が和室に鎮座する液晶テレビを見やって言った。
「そうやろ? この部屋のサイズに合ってへんねんけどさ、子供がここに住むときに家から持ってきて、そのまま。家のほうはもっと大きくて便利なやつに買い替えたからって。不要品置いて行かれたようなもんやで。だからだいぶ古いし、配信の動画観るのもちょっとめんどくさいんよね」
言いながら千景は、テレビのリモコンとテレビに取り付けた配信視聴端末用のリモコンを順に操作して、これから三人で観る映画を検索した。
「息子さんは、もう就職したんだよね?」
衣里が聞いた。
「物流系の会社に就職して五年目。二十七歳か」
「えー、もうそんなかぁ」
「私もたまにしか会わへんから、びっくりするときあるで。あれ? なんか、大人の人間やん、みたいな。出勤して会議出たりするんや、こないだまで床に転がってようわからん遊び延々とやってたのに、って」
千景は、息子が十歳、娘が五歳のときに離婚して一人で家を出た。家族で暮らしていた家は、夫の実家の敷地内にあったが、義理の両親と折り合いが悪かったわけではないと話していた。夫も義理の両親も子供たちとはよい関係で、千景は今も年に一、二度はその家に行くことがある。息子は大学生のときは通うのに便利なこの部屋で千景と八年ぶりに同居していたが、今は実家とこの千景の部屋との中間くらいの街で一人暮らしだ。
「二十七歳かあー。想像つかないなあ」
と衣里が言ったのは、千景のスマホで大学生時代の画像を見せてもらったきりのその息子がもう会社勤めをして数年たっていることの感慨でもあったし、今年の春に結婚したばかりなので子供を産んで育ててというその先の長い年月を途方もなく感じたからでもあった。
「部屋、暗くする?」
「しなくていい、いい。なるべく、さくっと観ようよ」
駒子は、自分が誘ったもののかえってしっかりした鑑賞会になりそうなのに戸惑っていた。できるだけなんでもなく、たまたまつけたテレビでやってたから観たぐらいの感じにしたかった。
長らく公開の機会がなくDVDなども出ていなかったこの映画は、衣里も観るのは初めてとのことだった。
『明日の世界』を監督した野崎哲生(てつお)は、九〇年代から二〇〇〇年代前半に五本の映画を作り、その後二十年近く映画は発表せず、関西の芸術系大学で教えることに専念していた。二年前に学生たちと作ったドキュメンタリー映画が評判になり、あちこちにインタビューが掲載されて昨年は特集上映も組まれ、駒子は忘れかけていたその名前を目にすることになったのだった。
「野崎監督が好きな人の話に出てくるからあらすじ的なものは知ってるけど、観るのは初めて」
衣里は、今までに観たその監督の映画のタイトルをあげ、あれはよかったけど、これは今ひとつ、とごく手短に感想を話した。千景は東京に引っ越してまもないころに一本観たことがあると言ったが、駒子は監督の名前がたとえば雑誌に載っていても避けていたくらいなので、この監督の映画を観ること自体初めてだった。
レモン味の炭酸水で乾杯し、千景が映画を再生した。
青い空。
商店街の光景。行ったり来たりする、スニーカーの足もと。
花屋の店先で花束を作る若い女の後ろ姿。
男の声に呼ばれて、女が振り返る。
「わー、かわいいー。ミーコって人だよね」
衣里が屈託のない声を上げる。
「あー、なんか思い出してきたわ。この人、歌手やったやんな?」
「うん。映画にも何本か出てる」
と、リアルタイムでの記憶がいちばんないはずの衣里が答えた。
「太眉に真っ赤な口紅、時代やなあ」
「千景さんもこういうメイクしてた?」
「映画の公開は八九年? 九〇年? 中学生やし、私は就職するまで化粧したことなかった」
「えー、そうなんだ」
「最近の若い子は顔にめっちゃお金使わなあかんくて、大変やんな。私のころも、化粧がんばってる子はがんばってたけど、ほったらかし率も高かったからそんなに気にせんくてよかったんよね。まあ、人によると思うけど」
「インスタでメイク動画とか観てるとみんなすごいよね」
ごはんを食べに行くときと変わらない、あっちこっちに話題が転がる会話になり、駒子はほっとした。やっと、ピザに手を伸ばし、マッシュルームとアンチョビのほうを一切れ取った。
商店街を走り抜けるマリアを追いかけていく男。
マリアが振り返って笑った次の瞬間、画面いっぱいに青い海が広がる。
カメラはだんだん上方向を映していき、水平線と空だけがある。
「おお、突然の海! やっぱり海だよね、青春映画って感じ」
「青春映画なの?」
「まあ、そうちゃう?」
砂浜が映ると、遠くにぽつんと二つの人影がある。こちらに向かって歩いて来るのは、マリアと、商店街にいた男・ケイスケだ。
砂浜を見下ろす道路には青い軽自動車が停まっている。ボンネットに腰掛けていた若い男が、ケイスケとマリアの姿を見つけると、砂浜に駆け下りていく。
「こっちが、ジョージ?」
「ドラムの人だよね。ちょっと体育会系?」
ケイスケは痩(や)せていて髪も顎下(あごした)まで伸ばし、よれよれのシャツに擦(す)り切れたジーンズで、いかにも文化系の学生っぽい風貌だった。
ジョージのほうははっきりした顔立ちに体格もよく、日焼けした肌に白いTシャツが映えている。
「本を書いたダイスケがケイスケで、他の人も……」
「たぶんみんなちょっと違う名前になってると思う」
駒子が答える横で、千景はスマホで検索を始めた。衣里が聞く。
「マリアも、この映画オリジナルの名前?」
「本では、確かリリーだったはず。花屋の百合が似合う女の子だったからここではリリーと呼ぼう、って書いてあった。うろ覚えだけど」
母の名前は真莉子(まりこ)だからエッセイよりも映画のほうがかえって母の名前に近づいてしまってるんだけど、とは、駒子は言わなかった。
「原作と名前変えてあるっていうのは、だいぶ違う話になってるから?」
「どうなんだろ」
「時代も違うことない? バンドが活動してたのって七〇年代の後半やろ? 車とか街の看板とかめっちゃ八〇年代やん」
「でもケイスケの服はちょっと七〇年代感あるよ」
「バンドやってる人には、いつの時代もこういう格好の人ようおるやん」
千景の身も蓋もない感想に、衣里と駒子は笑った。
波打ち際を歩く男二人、女一人と、スマホの画面を見比べて、千景が言った。
「ジョージ役は、木原武司(たけし)やね」
「あ、署長の人?」
数年前から人気の刑事ドラマシリーズで署長役をしているベテラン俳優だった。そのドラマでは駄洒落(だじゃれ)ばかり言うとぼけたおじさんの役柄で、恰幅(かっぷく)の良さをよくネタにされてもいた。
「若いとき、こんなしゅっとしてたんや。イメージ違う」
「いかにも二枚目だよねえ。どこで路線変えたんだろ」
「ケイスケの役の人は、その後はあんまり出てないみたい」
「ケイスケの人のほうが味のある感じするけどな」
「監督の友達だったんじゃない? 自主制作映画だとよくある」
「そうかも。このときって、監督はまだ二十五歳ぐらいだよね」
「ザ・ラストサウンズって、私は全然知らないけど、当時は人気あったのかな」
「知ってる人は知ってるっていう感じみたい。一般的にはそんなに売れなかったけどバンドやってる人には人気あるバンドってあるじゃない?」
「あー、なんかわかる」
ミーコが演じるマリアは、ショートパンツから伸びる細い脚で波打ち際を歩いて行く。 脱いだ赤いサンダルは左手に持っている。
離れてうしろを歩くケイスケとジョージは、マリアの後ろ姿を見ながらも最近読んだらしいアメリカの小説の登場人物について話し合っている。
――なんであの場面で死んじゃったんだと思う?
――おれやったらあいつのほうを殺して女と逃げるな。
――そんなのは平凡すぎるじゃねえか。
――平凡やからええんとちゃうか……。
波と風の音に、男たちの会話はかき消される。
「男二人に女一人、っていうのも定番な感じするな。こういうビジュアル、よう見るやん」
「確かに。女二人に男一人はあんまりないよね」
ひときわ大きな波が来て、避けるかと思いきやマリアは海に入っていく。
ケイスケとジョージは慌てて走り寄り、ミーコの腕をつかんで砂浜に引き戻す。危ないよ、と動揺する男二人に、マリアはいたずらっぽく子供みたいな声で笑うと、唐突に走り出す。
マリアの両側を追い越したり追い越されたりしながらケイスケとジョージも走る。
「あ、この走ってるのはきっと『突然炎のごとく』のオマージュだよ」
衣里が言った。
ずいぶん前に観たきりでストーリーはほとんど忘れてしまったモノクロ映画のシーンを、駒子は久しぶりに思い出した。
海のシーンの最後に『明日の世界』とタイトルの文字が重なる。
そこから、ケイスケとジョージの出会いが回想される。
新宿のレコード店で目当てのレコードを熱心に探す若い男が二人。
店内の狭い通路を近づいたり離れたりしながら、なんとなく意識し合っている。同時にレジに並び、お互いが持っているレコードをちらちらと確認する。どうやら、似た趣味らしい。しかし彼らはお互いに話しかけることはなく、店を出て別々の方向に新宿の雑踏を歩いて行く。
学生で賑わう大学のキャンパス。授業に出る様子もなく、人のほとんど通らない校舎の脇のベンチに寝転がっているケイスケ。傍らには、レコードショップの袋が置かれている。
通りかかったジョージが覗き込み、あ、おまえさ、と声をかける。ケイスケは目を開け、なんや、おんなじガッコやったんか、と起き上がる。
路地奥の古い下宿の二階にあるケイスケの部屋で、ケイスケとジョージはレコードをかけ、アコースティックギターを弾きながら、音楽談義をするようになる。隣の住人からうるさいと苦情を言われたり、金がなくて同級生のバイト先の定食屋に残りものを食べに行ったりする。下宿の共同の電話には、ケイスケの京都にいる両親からたびたび電話がかかってきて、階下まで呼ばれるケイスケも電話を取る一階の学生も面倒そうにやりとりをする。両親は、東京に行くことも大学に行くことも賛成ではないらしい。
大学を卒業するころ、近隣のライブハウスや飲み屋でときどき顔を合わせていたハチ、ナベをジョージが誘い、バンドを組むことになる。しかし、バンド名で意見が一致せず、そのために練習もろくにやらないというどうしようもない日々がしばらく続く。
「ケイスケ役、京都弁は京都弁なんや」
「本で印象に残ったのもそこだったから、ダイスケって人は京都弁のイメージが強かったんだろうね」
「千景さんが聞いてどう、この京都弁」
「ネイティブっぽい感じする」
「それでこの人にしたのかな」
大学を卒業して就職もせず音楽活動をするケイスケに実家の父や母から電話がかかってくる場面が繰り返される。
ケイスケの父は京都の伝統工芸の職人で、家業を継ぐことを両親は望んでいたらしい。
――あんたが一回だけのわがままやって言うから、経験やと思って東京に行かしたのに。
――おまえみたいなええかげんなやつにはできひん仕事や。もう帰ってこんでええ。
世間は景気がよく、東京では稼ぎのいいバイトや短期の仕事がいくらでもあり、ケイスケたちはライブハウスに出演するようになる。
「思ってたよりええ感じやな、今のとこ」
千景が言った。
「いや、こまっくには言うたけど、しばらく八〇年代のアイドルが出てた映画何本か観てて、それに比べたら撮り方がセンスええっていうか。三十年以上前やから時代的に微妙は微妙やけども」
「うん。気恥ずかしくて全然観れないみたいなんだったらどうしようかと思ってた。二人も巻き込んじゃって」
駒子も安堵して言った。ピザも味わって食べられる。
ライブの観客は増えてくるが注目されるほどの人気にはならない。
既にレコードを出したバンドや知り合いのつてでレコード会社の人を紹介してもらったりデモテープを送ったりするうち、ようやく、興味を持ってくれるプロデューサーが現れる。
レコードを出せるかもしれないと盛り上がった彼らは、ジョージの親戚が持つ倉庫を改装してスタジオを作りそこに練習場所を移すことにする。
なんとか使えるようになったそのスタジオへ向かうケイスケが、昼間のほとんど乗客のいない列車を降り、駅前から続く商店街を歩き始めたところで、花屋で客の対応をする若い女の姿が目に飛び込んでくる。
「あ、うちの花屋はね、こんな駅の近くじゃないんだよ。商店街の終わりの、ちょっと外れたとこ」
「こまっくさんち、お花屋さんだったんだ。朝早くて大変なお仕事だよね」
「そう! 肉体労働だよー!」
マリアを見つめたまま、ケイスケはしばらくそこに立ちつくす。ぼんやりとしたまま、人の行き交う商店街でぶつかりそうになって怒鳴られたりし、スタジオに辿り着くと、ジョージだけがいる。ジョージも、ドラムセットの椅子に腰掛けて、心ここにあらずといった表情をしている。
入ってきたケイスケに気づいて、ジョージが言う。
――おれさ、見たんだよ。
――なにを?
――駅前に、天使がいた。
――ああ、それやったら、おれも見たわ。
――天使を見たら死ぬんだっけ?
――さあ、どうやろ?
「天使かあ」
千景が、大げさに息をついた。
「これはエッセイにも書いてあったの?」
衣里は、映画の中のやりとりも、千景の言い方も、おもしろがっているようだ。
「書いてた」
駒子は短く答えた。
「駅前の天使。花屋の天使」
「天使なあ」
千景が繰り返した。
(つづく)

