小説『リング』は「男性たちの物語」だが、映画は……

つまり、小説『リング』において、主人公は何らかの恐ろしいビデオテープが存在することを予見して(あるいは期待して)「呪いのビデオ」を探しに行き、そして「呪いのビデオ」に出会うのである。

さらに小説『リング』では、この得体の知れないビデオテープに異様な関心を示す浅川を見て、当初はビデオに無関心であった管理人も次第に「消し忘れのビデオ」ではないかなどと好奇心を膨らませ、「おもしろいヤツだったら、すぐに、頼みますよ(※3)」と言うのである。

『Jホラーの核心: 女性、フェイク、呪いのビデオ』(著:鈴木潤/早川書房)

ここで管理人が想像している「消し忘れのビデオ」とは、アダルトビデオメーカー・九鬼〔のちに「KUKI」へ改称、2017年廃業〕が80年代半ばにリリースした『消し忘れビデオ』のようなアダルトビデオであろう(※4)。浅川が「呪いのビデオ」と出会う場面では、レンタルビデオという映像流通の場に向けられた男性観客たちの「期待」が、生々しく反映されたやり取りが描かれているのである。小説『リング』は、ビデオを見る男性たちの物語だと言える。

それに対して映画『リング』は、女性たちの物語である。主人公・浅川の設定は男性の新聞記者・浅川和行から、シングルマザーのテレビ局ディレクター・浅川玲子へと変更されており、「呪いのビデオ」をつぶさに観ることで映像の違和感に気づいたり、そのさらなる分析のために業務用の再生機器を用いたりする、「見る」女性として描かれた。

そして、映画『リング』シリーズで描かれる貞子の在りようは、「見る」力を発揮する女性の怪物として、彼女を規定していく。「呪いのビデオ」をひとりでに再生し始めたテレビ画面から貞子〔演:伊野尾理枝〕が這い出てくるあの衝撃的なクライマックスは、誰もが彼女の「目力」に圧倒されるシーンだと言えるため、ここではそれ以外の場面に注目していこう。

※3…「ごくっ。警告。度胸のない奴は、コレを見るべからず。後悔するよ。ヘッヘッヘ。S.I.」(鈴木光司『リング』角川書店、2012年[第43版]、83頁)
※4…『消し忘れビデオ』などのアダルトビデオ作品と「ビデオ」というメディアの歴史については藤木TDCによる『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎、2009年)を、『消し忘れビデオ』の根底にあるラブホテルにおける撮影サービスについては溝尻真也「ビデオテクノロジーの歴史的展開にみる技術/空間/セクシュアリティ──1970年代日本におけるビデオ受容空間とそのイメージの変遷」(『愛知淑徳大学論集 メディアプロデュース学部篇第2号』2012年、39─54頁)を参照のこと。