獺祭には獺祭の哲学
かつて急成長する獺祭に対して「あの蔵には文化がない」と言われたことがありました。果たしてそうでしょうか。獺祭には獺祭の哲学があります。
ニューヨーク蔵には見学者向けのテイスティングルームがあります。この部屋の展示で重視したのは「いかに獺祭の哲学を表現するか」です。「手間」に代表される「造る」ということを大事にする獺祭の考え方は、ある意味アメリカが持っている「製造はマーケティングと比べて下のもの」そして「合理化・標準化・大量処理・機械化」こそ重要というアメリカの考え方と対極にあります。
この「手間」を大事にするということをアピールするのは、アメリカ文化を否定することにもなり、危険性は大いに承知しながら推し進めています。
山口県の山奥の小さな酒蔵がこの40年ほどで、なぜ大きく成長できたのか……。まず、社会が大きく変わったことが挙げられます。その変化にタイミングよく対応して変わることができたといえます。
なぜそれができたか、おそらく「こういう酒蔵になりたい」という理想があって、その方向に向かっていったのが大きいと思います。そう言うと理想に向かって計画的にやったと思われるでしょうが、私がせいぜい考えたのは、「なんか良い酒をお客さんに出したいなぁ」「格好いい酒蔵になりたいなぁ」「黙っていても酒が売れる酒蔵になりたいなぁ」と、その程度のミーハー的なものでした。
ただ、何よりも力を入れたのは、「美味しい酒を造る」ということでした。これは絶対にブレない核でした。
戦後、日本経済が発展する中で、様々な就職先が生まれて農村の労働力は減っていきました。となると酒を造る杜氏や蔵人も減ってくるわけです。
灘や伏見、新潟などの大手メーカーは機械化によって労働力の不足を補っていきます。地方の酒蔵で優秀な杜氏を抱えるところは、大量生産はできないけれど地方の銘酒として残っていきます。でも、このどちらにも弱点がありました。
酒造りの機械化は非常に難しいのです。