おじさんの「うにスパゲッティ」

初めてこの地に足を踏み入れた日。夜遅くに到着する便だったので、あらかじめ空港からホテルまでの送迎サービスをお願いしておきました。だけど、その送迎車で最初のカルチャーショックを受けました。

なんと、空港から目的地のホテルまでの1時間、運転手が一言もしゃべらない! 陽気で明るくおしゃべりな人たちばかりだと思っていたのに、一言も! 先入観があっただけに、これはショッキングな出来事でした。高速道路を走っているのに電灯がなくて真っ暗で、運転手はしゃべらないしで、本当にマフィアの国に来てしまったのか、と不安100%のはじめの一歩でした。

遠くに灯りが見えてきた時、「あー、マフィアに変なところに連れて行かれてたんじゃなかった」と、心からホッとしたことをよく覚えています。運転手さんにさよならを言って入ったホテルで、部屋まで案内してくれた従業員が窓を開けて夜景を見せながら肩に手をまわしてきたのにはこれまたびっくり。

ひゃあー、これこれ。これこそがイタリア人。だけどその目の前に広がる夜景が度胆を抜く美しさで、長旅の疲れも、さっきまでの「誘拐されるのか?」という不安も、「この肩にのった手は何なの?」という怒りもほどけました。

一夜明け、ホテルの海の見えるテラスで、鳥のさえずりを聞きながら優雅に朝食をとった後、町の観光に出かけました。これが運命の分かれ目になるわけですが、その時は、ホテルの前の道をどちらに行けば町なのかさえもわからず歩き始めていました。

どうやら選んだ道は間違っておらず、町の中心に着きました。お店が並ぶ石畳のメインストリートを進み、見晴らしのいい広場に立ち、バルコニーの向こうに広がる海、山、街並みの織りなすパノラマに見とれていたら、ひとりのおじさんがニコニコしながら近づいてきました。

そのおじさんはおもむろに地図を取り出すと、広げて見せてくるではありませんか。それも、「映画『グランブルー』が撮影されたのはあそこ」とか、親切な解説つきです。なんなんでしょう、このおじさん。

そうこうするうち「うにスパゲッティをごちそうするから、うちにおいで」なんて言い始めました。こんなおじさんなのにナンパなの? すごいな、シチリア。いや、もしやよっぽど暇ないい人で、よく旅番組に出てくるような、頼んでもいないのに町を案内してくれる人なのかも。それだったら、家に行くと、これまた人のいい奥さんがいて、料理を作って待ってるような展開なのか……。

迷っていると、おじさんは今すぐ行こうとは言わず、後で会おうと言います。私は「行くかわからないよ」と告げ、とりあえずその場から解放されました。今思えば、ここが重要ポイントでした。「今行こう」だったら絶対行かなかったでしょうから。

午前中に会ったのだから、誘うならランチかと思いきや、仮約束は15時。うにスパゲッティを15時! こっちはお昼を食べるべきか悩まされましたが、おじさんにしてみればマンマとの昼食は外すわけにはいかなかったようです。

ところで、お互い“なんちゃって英語”で話しているのだけど、「うに」だけは日本語。おじさんどうして日本語知っているのかしら。うにってもしや、世界標準語? そんなわけはありません。

あとでわかったことですが、主な産業が観光業のこの地では、冬場は半分くらいのホテルやレストランがクローズするので、仕事をしていない人が多いのです。このおじさんは冬の間は暇さえあればこうして女の子を誘っているらしく、世界各国の女の子をひきつける言葉を各国語で話せるという、いわゆるプレイボーイ。ナンパの達人だったのです。

日本の子には「うにスパゲッティ」、北欧系には「ワインいっぱいあるよ」、アメリカンガールには「オレンジジュース搾ってあげるよ」みたいな決め台詞を使っていたのだとか。

さらにもうひとつ、私が町の観光をしようとホテルを出て、この道が合っているのかもわからずドキドキしながら歩いていた時、車で後ろから通り過ぎ、私のことをバックミラー越しに見て、「もうじきあの広場に来るな」と確信して先回りしていたそうな。怖い! こんな人だとわかっていたら、絶対ついては行かなかったでしょう。