イラスト:丹下京子
今よりも海外の情報が手に入りにくかった二十数年前。若くて怖いもの知らずだった私は、現地で声をかけてきたおじさんの誘いにまんまと引っかかり……。(「私たちのノンフィクション」より/イラスト=丹下京子)

仕事を辞め、思い立って一人旅へ

イタリア、シチリア島のタオルミーナというところに住んで、かれこれ20年。二十数年前、夫になる人と出会って、その後結婚してこの地にいます。でも6ヵ月前に夫が他界し、現在進行形で一緒に過ごしていたすべての時間が、死を境に過去形になってしまいました。

夫のいない日々の暮らしには慣れてきたものの、一方で過去から遠ざかってしまうという現実に打ちひしがれている自分もいて、思い出をすべてインプットできるチップがあるのなら、今すぐ脳内に埋め込みたい。それはまだできないようだから、ここにアウトプットしておきます。

シチリア島、みなさんご存じですか? 世界地図を広げて、ヨーロッパに行って、地中海をズームすると、その真ん中にあるのがシチリア島です。ブーツの形をしたイタリアのつま先にのった大きな石ころのような島、とよく言われます。その石ころのような島は、小さな島のイメージが強いですが、四国より大きくて九州よりは小さいので、ほんとはけっこう大きい島なのです。

このシチリア島、映画ファンなら、なんと言っても『ゴッドファーザー』、マフィアの地を思い描く方が多いでしょう。でも20代の私は、マフィアの地に行ってみたいと思ったわけではもちろんありません。光り輝く青い海と、美しく稜線を広げる雪化粧した山をバックにしたレンガ造りの古代野外劇場の写真を雑誌で見て、その景色をこの目で見たいと思い、旅先に選んだのです。

それはちょうど人生にプチブランクができた時。やる気満々、のりにのっていた仕事は楽しかったけれど、実家に異変が起こりました。大学進学時に出た実家には4つ年上の兄がいて、ずっと同居し続けるだろうと思っていたのですが、ある日突然、家を出て彼女と暮らし始めたというのです。

当時は両親とも働いていて、父は24時間勤務の消防士でした。母は父のいない夜には慣れていたけれど、私も兄もいなくなり、一人で晩ご飯を食べることを思ったら、いてもたってもいられず一念発起、これは実家に帰らねばと思いました。

それで仕事を辞める段取りなどをして8ヵ月後に実家に帰ってみたら、なんと兄は彼女に追い出されて実家に帰って来ていたという……。私が実家にいる大義名分はなくなり、新しい仕事に就く前に旅に出ようと思い立ったのです。

ネットで情報を集めるなんて環境ではなかった当時、旅の道しるべはシチリアのページが全体の200分の1ほどしかない『地球の歩き方 イタリア版』だけ。あんなわずかな情報量で、よく一人旅をしようと思ったな、と今になって思います。島の難易度を知った今は、その分臆病になってしまっているのでしょう。あの頃は無知で無謀でしたが、度胸と自信だけは持っていました。