墓のことはどうでもいい
無であることは嬉しい。なまじ天国だの地獄だのがあると思うと生きているときから苦しい。気になってしまう。残り少ない年月を好きに暮らしてパッとすべてがなくなればなんの苦労も屈託もない。屈託を感じることもないのだ。
かくて墓のことはどうでもいい、となる。私はなんにも感じないのだから関係者が好きなように処理して結構、なのだが、それも社会習慣上困るなら、例えば骨を家内ともども十字架つきの箱にでも入れ、都心の共同墓地あたりに納める、そんな方便がこのごろあるみたい。あれで結構、私は無なのだから結構もへちまもないけれどここに書いてだけおこう。
とにかく2、3坪の土地を入手してりっぱな墓石を置くなど、あれは(やりたい人がいれば私とは無関係だが)やめてほしい、と一応綴っておこう。あんなこと、まずお金がもったいない。
子どもたちだって(多分都心を離れた郊外地だろうから)年に1、2回やって来るくらい。10年もたてば間遠くなり、やがて当人たちも死んでしまう。そのとき自分たちの墓所をどうするか、それは私には考えられないし、私が考えることではあるまい。いつまでもだれもが知らない墓が残っているなんて大変な無駄であり、狭い国にとっては公害のおそれさえある。
子どもたちは「親父は無になった」と、この真理を胸に留めておいてほしい。私はキリスト教徒ではないが、家内と二人、しばらく十字架のついた箱の中に納まっていよう。聖書はよく読んだ一冊であり、ダイジェストも綴って少しく印税をいただいた本であった。
