無を信じている
武蔵野を散策して、
――植物葬でもいいな――
と思ったりもした。詳しくは知らないが、私の身体が、骨がどれだけ大地の肥料として役立つかわからないけれど、とにかく自然に還るのは生物として、命を繋いできたものとして頷ける。生きとし生けるもの、みんなこの法則を実践しているのではないか。これがまっとうなあり方ではないのか。だれにも迷惑をかけず独り無になって消え、やがてなにか植物になったりするのだろう。
よくはわからないが、無になった私がわかるはずもないが、やっぱりこれこそ結構毛だらけ猫灰だらけ……不謹慎を楽しく呟きたくなってしまう。
もう一度、繰り返すけれど、私にとって“死は無なのだ”と今は固く信じている。この考えは確かに生きていく叡智として、希望として、謀(たくら)みとして、私以外の人々の心に残っていくだろう、と、これも信じている。もちろん死後を案ずる釈迦牟尼もキリストもマホメットもみんな尊く、偉いけれど、皆様はそれぞれどうぞご随意に。90歳の私は無を選ぶ。無を信じている。
――それでいいのだ――
今のところの結論である。