罪悪感と温度差を詠む

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり

大口さまには日本語教師としての経験もあります。「さびしかつた」はその例文でしょう。ですが、大口さまは日本語ネイティブであり、さらに歌にあらわれるように道徳心とともに繊細さを持ち合わせている作者。この言葉を言わせてしまったことに、言葉を使う者の寂しさや残酷さ、言葉が持っている力のようなものを感じたのでしょう。わずかな罪悪感が滲んでいます。

 

また作者が以前から大きなテーマにしていた原発、そして被災。3・11後、あたらめて自身と向かい合うたくましさが次のような歌から滲みます。

わたしたちみんなケーキを選ぶやうにみづから自由を選び取るべく

多くの困難の中で、われわれは人生の道筋を選びます。時に万全の決意を持って。しかしこの歌のキモは「ケーキを選ぶように」「選びとるべく」という言葉使いです。本当なら、ケーキを選ぶように自由を選びたい。でも、そんな簡単に軽やかに、自由な道は選べない。そんな人生の選択の葛藤が、「ケーキを選ぶ」という比喩に託されます。ケーキのように選べるわけがない。でも本当は選びたい。その願いがアイロニーとして「ケーキ」に託されているのでしょう。

「福島の人は居ませんか(福島でなければニュースにならない)」と言はる

おそらくテレビなどのメディアからの言葉でしょう。被災して逃げて来た人たちに、報道と娯楽の境目として、東北の人ではなく、「福島の人」に限定をして発言を求めるメディア。そこにはメディアとしての需要と供給があるのでしょうが、当事者として「福島以外の被災者」を疎外するような印象もあります。この、俗世界の欲望と、命からがら逃げてきた人の温度差。なんとも痛ましい姿です。