「奥へどうぞ」
 剣人に言われて店の奥の母屋へ通った。
 中庭には懐かしい井戸がある。霧が腰掛けていた床机(しょうぎ)の横に枯れた蔓の巻き付いた朝顔の鉢があった。なかじょうゆうと、と名前が書いてある。ふっと目眩を感じた。あの頃と同じ。ただ霧がいないだけ――。
 仏間に通された。深呼吸をして遺影を見る。
 霧が微笑んでいた。
 瞬間、涙が溢れた。私は慌てて顔を覆い、身を折り曲げた。次から次から涙がとめどなくこぼれ、激しい嗚咽に全身がひくひくと震えた。
 白鳥霧。死んでようやく会えた。
 寺内町燈路の行灯。万博の青い空。大屋根リング。白い鳥。寂しそうに笑う霧。
 蓋をした記憶に押し潰されそうだ――。
 どれくらい泣いていただろう。私は涙と鼻水を拭いて顔を上げた。そして、剣人も泣いていたことに気付いた。
「……ごめんなさい。お線香を」
 線香に火を付け、手を合わせた。涙がまた流れる。止まる気がしない。身体が干上がってしまうまで私は涙を流し続けるのか。
 供物台の上には蓬命酒「うばら」がある。二人で使っていた倉敷ガラスの青いぐい呑みも一緒だ。
「霧さんから頼まれたんです。自分が死んだら木綿子さんに渡してくれ、って」
 剣人が差し出したのは、霧がいつも使っていた古いノートパソコンだった。
「たしか、これは売り上げや仕入れの管理に使っていたのでは?」
「いえ。店のデータは俺のパソコンに引き継ぎました。その後、霧さんが私用で使ってたんです」
 霧の個人データが入っているということか。私は古い黒のパソコンを手に取った。ひやりと冷たく、今の物と違ってずっしり重い。
「パスワードってわかりますか。俺は知らなくて」
「ええ、たぶんわかると思います」
「よかった。じゃあ、これ、もらってください。それから、ほかに霧さんが使ってた物とかも持って帰ってもらえますか」
「ええ。もちろん。ありがとう」
「あー、よかった。霧さんとの約束を果たせてほっとした」
 肩の荷を下ろした剣人が笑い出した。彼がどれだけ一所懸命に霧の世話をしてきたかと思うと、急にたまらなくなった。