剣人が立ち上がって仏間を出て行った。私は遺影の霧を見た。大屋根リングの上で笑う霧はすこしも寂しそうではない。なんの屈託もない、翳りのない笑顔はすべての苦しみから解き放たれた者の特権を行使しているようだ。
 こんなふうに送ってあげたかった。私が霧を送ってあげたかった。だが、結局、私は彼になにもしてあげることができなかった。
 霧と出会ったときから別れるまでの記憶の断片がぐるぐる回りはじめ、棘の渦となって私を突き刺す。
 私は生きているのだから苦しんでも仕方ない。でも、せめて死んだ霧は楽になっていてほしい。空のずっと高いところを自由に飛んでいてほしい。
 私は動くことができず、ずいぶんと長い間座り込んでいた。
「木綿子さん。お久しぶりです。お待ちしてました」
 瀬良(せら)が入ってきた。きちんと化粧はしているがすこし痩せたようだった。
「瀬良さん。お邪魔してます。……優人君、大きくなったね。びっくりした」
「言うことを聞かへんから困ってます。学校の勉強より蔵の手伝いのほうが楽しい、言うてて」
「頼もしいじゃない」
 敢えて霧の話はせず、笑いながら互いの近況の雑談をした。
 帰りに瀬良が普通の蓬命酒を持たせてくれた。
「あの『うばら』はもったいなくて開けられないんやないですか?」
「そうなの。ありがとう」
「それから、これ、新製品なんです。……蓬命酒プリン」
 小さな瓶に入ったプリンを二つ、箱に入れてくれた。
「え? 美味しそう。すごいね。瀬良さんが開発したの?」
「もともとは霧さんのアイデアなんですよ。蓬命酒でプリンを作ったらどうだろうか、って。それで、近所のカフェにも協力してもろて研究したんです。蓬(よもぎ)の風味をどうやってプリンにするかが難しくて。霧さんにも何回も試食してもらったんですよ」
「……そう。霧さんの……」
 一瞬、言葉が出なくなった。私は慌てて顔を上げた。にっこり笑ってみる。
「ありがとう。今晩のデザートにするね。楽しみ」
 瀬良はしばらく黙ってこちらを見ていた。そして、小さな声で訊ねた。
「木綿子さん、ほんまに大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫」
 私の声も小さくなった。
「あの……迷惑やなかったら、もっとうちに顔を出してください。剣人も安心します」
「ありがとう。瀬良さん。……また、寄らせてもらうから」
「絶対ですよ。お願いします。霧さんの位牌はここにあるんやから。会いに来てあげてください」
「ええ」
 それだけ言うと、遺品の入った紙袋を持って逃げるように蔵を出た。