「いらっしゃいませ」
 すこしハスキーな低い声だった。夜の砂地のような、ひっそりと穏やかな陰がある。
「お忙しいところ申し訳ありません」
 顔を上げて男をよく見る。六十歳前後といったところか。綺麗なグレイヘアを後ろに流すようにして広い額(ひたい)を見せていた。そこまで顔は老けていない。もしかしたら私よりも若いかもしれなかった。
 理想的なグレイヘアだ。私もこんなふうになりたい。しばらく男の髪に見とれた。
「いえ。ご覧の通り暇なもんです。それで広告のこととお聞きしましたが」
 微笑むと、声にも視線にも柔らかさがある。半纏も着慣れてまるで普段着のような軽さがあった。私は同じ説明を繰り返した。
「……とりあえず一度試飲しませんか? 薬用酒は飲めますか? お車ですか?」
「ええ、まあ。今日は電車ですので」
 最後に飲んだのはいつだろう。もう憶えていないくらい昔だ。
「お掛けになってください」
 カウンターの前の椅子を指した。私は緑の丸椅子に腰を下ろした。カウンターは細かい装飾のされた上等の物だったが傷だらけだった。
 男は冷蔵ケースから二合サイズの細い緑色の瓶を取り出した。そこで私は気付いた。この男は下駄で歩いているのにカラコロと音が鳴らない。
「今日は暑いからロックのほうが飲みやすいでしょう」
 男は切り子のグラスに氷を一つ入れ、酒を注いだ。とろりと濃い黄金色が揺らめいた。
「蓬命酒は薬用酒で、簡単に言うと薬草で造った酒です。自家製の味醂(みりん)に蓬や陳皮(ちんぴ)や高麗人参、クコ、肉桂(にっけい)などを漬け込んで造ります。毎年春に仕込んで、六月に絞る。新酒ができるのは秋、十一月頃ですね。今、ちょうど仕込みの最中です」