「優人。店では走るなと言っただろう」
 霧が穏やかな、でも芯の通った声で優人を叱った。優人は慌てて立ち止まり、しまったという表情をする。その光景にふっと胸のつかえを感じた。
「優人、ただいまは?」
「ただいま」
 大きな声で優人が返事をしたところに、続いて二十代半ばくらいの女性が入ってきた。
「すみません。ただいま帰りました。……優人、ほら、お客様だから」
 いらっしゃいませ、と言いながら私に頭を下げ、男の子を抱え上げて奥へ消えた。
「お孫さんですか?」
「いえ。さっきの男の息子です。住み込みで蔵を手伝ってくれているんです」
「そうなんですか。ごく自然に躾をなさっているので、てっきりお祖父ちゃんとお孫さんかと」
 また言葉がこぼれた。いや、ただこぼれたのではない。溢れ出している。勝手に。
「いや、僕は独り身で。でも、彼らが家族のようなものです」
 霧が砂のように笑った。途端に胸のつかえがすうっと消えた。私はもう一度頬に手を当てた。火のように熱を持っていた。そう、ヤマトタケルを囲んだ野火のように。
「蔵をごらんになりますか?」
「いいんですか? お邪魔でなければ」
 白衣を渡され、蔵に案内された。
 一歩足を踏み入れると、外が暑かったせいかひやりと涼しく感じた。天井は高く、小屋裏には太い梁が渡してある。床は板張りで、想像していた木の桶ではなく大きな金属製の容器が並んでいた。
「まず味醂の元になる諸味を造ります。餅米に糀(こうじ)をまぶして糖化させるんですよ。温度管理と攪拌(かくはん)が大切です。室温は十八度くらいを保つようにしています。……ほら、床板を高く張ってタンクが半分埋まっているようにしています。温度を安定させるためです」
 そう言いながら、霧が長い木の櫂で8の字を書くように諸味をかき混ぜた。肩と腕が大きく動く。背中の白鳥紋が羽ばたくように揺れた。私は思わず見とれてしまった。
「味醂の諸味は日本酒より重いから攪拌が大変なんです」
 霧の低い声が蔵に寂しく響く。
「記事の参考になりましたか?」
「え、ええ。ありがとうございます」
 はっと我に返った。時計を見るともう四時だ。急いで帰らなければ。慌てて次回の打ち合わせの約束をして白鳥蔵を出た。
 

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