60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。


       第一章 蓬命酒
 
 霧のお参りをしてから、一週間が経った。
 私はいまだに遺品に手が付けられないでいる。霧のパソコンは仕事机の上に置いたままだ。私はこの黒いノートパソコンが怖ろしくてたまらなかった。
 知りたくないことが記されているかもしれない。でも、このままにもできない。霧の最後の言葉だからだ。たとえそれが辛い事実だったとしても、知らなければならない。霧のすべてを受け入れたい。霧のすべてを自分のものにしたい。なのに、その勇気が出ない。
 私は何度もパソコンを開こうとし、結局止めた。その夜のことだった。
 父の病院から呼び出しがあった。急変があってすぐに来てください、とのこと。午前二時の病院は救急外来の受付灯がくるくる回っているだけで、人気がなかった。
 私が到着したときには父は持ち直していた。酸素飽和度も血圧も回復傾向にあり、念のため朝まで病院にいたが、結局なにもせずに帰ることになった。
 車を運転しながら私は自問自答していた。果たして私は喜んでいるのか、がっかりしているのか。長年の介護はわずかに残っていた父への愛情を干涸らびさせてしまった。私はただの義務感で父を看取ろうとしている。
 本当に看取りたかった人を看取れず、看取りたくない人を看取る。これが私の老後だ。