「山際木綿子さんですか。……ご存じですか? 昔、この一体は河内木綿の栽培が盛んでした」
「それは知りませんでした」
男のかすれた声がすこし遅れて聞こえた。近くにいるのに遠くにいるような気がした。
「大丈夫ですか? あまりお酒が得意でないように見えますが」
男に言われて頬に手を当てた。顔全体がぽかぽかと熱を持っている。忘れていた。私は酔いはしないがすぐに真っ赤になる体質だった。
「久しぶりなんです。三十年ぶりくらいに飲みます。……美味しいです」
すると、男は驚いたように目を見開き、笑った。波が打ち寄せるように目許に細かい皺ができた。ああ、波ではない。砂だ。夜の砂丘にできる砂紋だ。
「光栄ですね。白鳥蔵が再開の一杯になれて」
「蓬のお酒を造る白鳥蔵ですか。まるでヤマトタケルですね」
勝手に言葉がこぼれた。私は思ったよりも酔っているらしい。
古事記によるとヤマトタケルは滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山で神の怒りに触れたとある。伊吹山は古来から薬草の山地として知られ、特に蓬は「伊吹もぐさ」として知られる名産だった。
ヤマトタケルは伊勢国まで逃れたが亡くなった。死後、その魂は白鳥になりヤマトまで帰って来たという。河内国にはその白鳥が羽を休めたとされる処があって、今は「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」という古墳になっている。
「ああ、気付きましたか。昔は普通の酒蔵だったんですが、昭和のはじめ頃に『白鳥』だから蓬を入れた酒を造ろう、って薬用酒を造りはじめたそうです。幸い、金剛山の麓でもよい蓬が採れますからね。春に摘んで乾燥させて使うんです。でも、ただの連想ゲームみたいなものなのに、わかってくださって嬉しいですね」
「私、国文学専攻で専門は古代だったんです」
「そうですか。なるほど。……すみません、遅くなりましたが」
男はわずかに首を傾け微笑み、名刺を差し出した。
白鳥酒造代表取締役社長 白鳥 霧
「きり、さんとお読みするのですか」
「ええ。霧です」
「さすが老舗の蔵ですね。さっき、若い方が旦那ぁー、って言っていて、時代劇のようだな、って思いました」
すると、霧が苦笑した。
「あいつが勝手に老舗感、時代劇感を演出してるんですよ。若いやつには新鮮なんでしょう」
そこへぱたぱたと足音がして、開いたままの表の戸から四、五歳くらいの小さな男の子が駆け込んできた。
