山際木綿子にはじめて会った日、俺は井戸端に置いた床机に腰掛け、しばらくの間じっとしていた。
 白鳥酒造には古井戸がある。蔵と母屋に囲まれた中庭の中心に掘られた屋根付きの小さな井戸だ。酒造りには今はポンプで地下水を汲み上げているが、昔はこの井戸水を使っていたという。
 仕込みを剣人に任せてすこし休憩だ。母屋から優人の甲高い笑い声が聞こえている。こら、と瀬良の叱り声がした。次に縁側のガラス戸が開いて優人が顔を出した。
「きりさん、きりさん」
 裸足(はだし)のまま庭に飛び降りて駆け寄ってくると、俺の膝にもたれて口を尖らせた。
「ママに怒られた」 
「怒られたのか。じゃあ、優人は悪いことをしたのか?」
「してへん」
「してないのにママは怒ったのか?」
 しばらく優人はもじもじしていたが、拗ねたような表情で俺を見上げた。
「でんぐり返しをしただけや」
「あれ? 優人は晩ご飯を食べてるところじゃなかったか?」
 すると、優人が黙り込んだ。
「そりゃあ優人が悪い。ご飯はちゃんとお行儀よく食べないと」
「でも、今日な、でんぐり返しが二回連続でできてん。ママに見せよと思て」
 優人が懸命に訴える。
「連続でんぐり返しができるようになったのか。そりゃすごい。よかったな」
「へへー、すごいやろ」
「でも、食事中にしたらだめだな。ちゃんと、ごちそうさまをしてからじゃないと」
「……わかった」
「後できりさんにも見せてくれるか?」
「うん」
 優人が大きくうなずいた。俺は立ち上がり、優人の手を引いて母屋に戻った。
「ねえねえ、きりさんもでんぐり返しできるん?」
「昔はできたなあ。でも、もう歳だからどうかなあ。腰がなあ……」
「歳やとでけへんの?」
「そうだな。歳を取るとできないことが増えてくる。でも、大丈夫。優人は歳を取って大きくなったら、できることがどんどん増えていくよ」
「なんで? きりさんはでけへんことが増えるん?」
「なんでだろうなあ」
 縁側では瀬良が待ち構えていた。優人を抱き上げて渡す。
「優人の足、汚れてるから」
「霧さん。ありがとう。足を拭いてご飯の続きにします」
 俺は縁側の戸を閉め、蔵に向かった。ステンレス桶の前では剣人が真剣な顔で櫂を握りしめている。