討ち入りの前日、赤垣源蔵という浪士が暇乞いをするために兄の家を訪れる。だが、兄は不在で、仕方なしに兄の羽織に向かって語りかけながら徳利を傾けて別れを告げる、という場面だ。源蔵はしみじみと羽織に向かって思い出話をする。討ち入りのことを悟られてはいけないので、あくまでも普段通りに振る舞うのだ。
子供の眼にも羽織に向かって話しかける男の姿はじんときた。これが最後の別れなのだから、羽織に向かって独り言を言う姿も大げさには感じられなかった。
この別れの場面のことを霧に話したことがある。すると、霧も知っていた。
――子供の頃はそれほどピンとこなかった。でも、大人になってわかった。俺は親友が死んだとき、そいつのユニフォームに向かって話しかけていた。ごく自然にな。
私は霧がユニフォームに向かって語りかけるところを想像した。それはとても美しくて寂しい場面だった。
私は印半纏をじっと見つめた。
「ほんと、霧さんの言うとおりだった。私、ごく自然に話しかけてる」
一人暮らしの家だ。誰に聞かれる心配もない。そして、恥を怖れる年齢でもない。
「ねえ、霧さん。あの後、私も霧さんの下駄の音が忘れられなかったんです。だから、普段ならやらないことを二つしたんです」
一つ目は依頼された原稿を持って白鳥蔵に出向いたことだ。普段ならメールで送るだけなのに、わざわざ持参した。もう一つは車を使わなかったことだ。車なら三十分の距離なのに、電車バスを乗り継いで一時間掛けて寺内町まで行った。そのときから、私はおかしくなっていたのだ。
出典=WEBオリジナル
遠田潤子
作家
1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒業。2009年『月桃夜』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。『雪の鉄樹』が「本の雑誌が選ぶ2016年度文庫ベスト10』第1位、『オブリヴィオン』が「本の雑誌が選ぶ2017年度ベスト10」第1位に輝く。『冬雷』で第1回未来屋小説大賞、25年『ミナミの春』で山田風太郎賞を受賞。他の著書に『銀花の蔵』『イオカステの揺籃』『天上の火焔』などがある。
