討ち入りの前日、赤垣源蔵という浪士が暇乞いをするために兄の家を訪れる。だが、兄は不在で、仕方なしに兄の羽織に向かって語りかけながら徳利を傾けて別れを告げる、という場面だ。源蔵はしみじみと羽織に向かって思い出話をする。討ち入りのことを悟られてはいけないので、あくまでも普段通りに振る舞うのだ。
 子供の眼にも羽織に向かって話しかける男の姿はじんときた。これが最後の別れなのだから、羽織に向かって独り言を言う姿も大げさには感じられなかった。
 この別れの場面のことを霧に話したことがある。すると、霧も知っていた。
 ――子供の頃はそれほどピンとこなかった。でも、大人になってわかった。俺は親友が死んだとき、そいつのユニフォームに向かって話しかけていた。ごく自然にな。
 私は霧がユニフォームに向かって語りかけるところを想像した。それはとても美しくて寂しい場面だった。
 私は印半纏をじっと見つめた。
「ほんと、霧さんの言うとおりだった。私、ごく自然に話しかけてる」
 一人暮らしの家だ。誰に聞かれる心配もない。そして、恥を怖れる年齢でもない。
「ねえ、霧さん。あの後、私も霧さんの下駄の音が忘れられなかったんです。だから、普段ならやらないことを二つしたんです」
 一つ目は依頼された原稿を持って白鳥蔵に出向いたことだ。普段ならメールで送るだけなのに、わざわざ持参した。もう一つは車を使わなかったことだ。車なら三十分の距離なのに、電車バスを乗り継いで一時間掛けて寺内町まで行った。そのときから、私はおかしくなっていたのだ。
 

【関連記事】
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第1回
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第2回
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第3回