音楽教室に勤める駒子は、同じ教室でギターを教える長谷川から、母の過去について問われるが……。70年代後半に活動していたバンド「ザ・ラストサウンズ」と、駒子の母との関係は?  新刊『帰れない探偵』で読売文学賞を受賞された、柴崎友香さん、初のWEB連載小説スタート。

夢の外側 11

 6 愛される彼女


 インターホンが鳴り、千景(ちかげ)だと思って駒子(こまこ)がドアスコープを覗くと、知らない若い男性が立っている。
 ドア越しに、彼の声が聞こえた。
「すいません、母がこれを持っていってって」
「ああ、千景さんの……」
 駒子はほっとしてドアを開けた。冷たい風が流れ込んでくる。グレーのスウェットを羽織った背の高い彼は、にこにこと若者らしい笑顔で、紙袋を差し出した。
 受け取った紙袋を覗くと、電動ドライバーのセットと軍手が入っている。
 日曜の今日は、通販で買ったシェルフの組み立てを千景に手伝ってもらうことになっていて、午後一時ぐらいに駒子の部屋に来てもらうことになっていた。昨夜メッセージをやりとりしていたときに、息子が来ると言っていたのを思い出した。駒子がここに引っ越してくる前に、千景と同居していた息子だ。
「ありがとうございます」
「いつも母がお世話になっています」
 彼は、礼儀正しい口調で言って軽く頭を下げた。短い髪のさっぱりとした今どきの若者、という感じだった。
「いろいろ助けていただいてるって、母から聞いてます」
「いえいえ、助けてもらってるのはこちらのほうで……」
「なんかさっき、部屋を出かけたところで仕事先のトラブルの電話がかかってきちゃって、それでこれだけとりあえず持っていけって」
 笑いながら話す彼の表情から、千景が慌てる様子が目に浮かんだ。
「私のほうは全然だいじょうぶなので、落ち着いてからで、とお伝えください」
「はい。じゃあ」
 と言って、彼は階段を下りていった。
 予想していなかった状況で、よそよそしい態度になってしまっただろうか、お茶でもと言ったほうがよかっただろうか、と思いつつ、駒子は部屋に戻った。壁に立てかけていた組み立て式のシェルフが入ったダンボール箱を床に寝かし、梱包を解き始めた。
 説明書を見ながら部品を確認しているとインターホンが鳴り、今度こそは千景だった。
「ごめんごめん、なんか急にややこしい電話やったから、慌てて将(しょう)に頼んじゃって」
 そうそう、将という名前だった、と駒子は思い出した。
 千景はオレンジ色のアウトドア仕様のフリースジャケットを着ていて、駒子はこの黄味がかったほどよいオレンジ色を見るのも何シーズン目かだな、と思う。季節が同じように巡ってくるのは安心感があるものだ、とこの数年思うようになった。コートを着ずに行き来できる距離も、安心感を作っている要素の一つだ。
「日曜なのに仕事の電話?」
「システムの納入先が美容系サロンやから、土日も一部は営業してるんよね。サポートに電話してもすぐ対応してくれないからって私に直で連絡してきてさ。とりあえずの対応はして、今日出勤してる担当者につないできた。これ? 思ったよりでかいな」
 床に置かれたダンボール箱の中身を千景は検分するように見ると、しゃがんで説明書を確かめ始めた。
「将くんが来てるのに、うちに来てもらっていいの?」
「ああ、だいじょうぶだいじょうぶ。先月も会うたし、昨日の夜からおるし。向こうの家からの差し入れっていうか義父母からの北海道旅行のお土産とか持って来てんけど、うちの部屋を掃除したいってなんか換気扇を分解したりしてる」
「きれい好きなんだ」
「そうやなあ。いっしょに住んでるときは、片づいてたな。……どうしよ? ここのスペース空けて広げるか」
 二人は、ダイニングテーブルと椅子を動かして空間を作った。それから、ビニールに包まれた部品を手分けして出し、組み立てやすいように並べていく。スチールの枠組みに合板の棚板と引き出しを組み合わせるシェルフで、部品の数も多く少々ややこしそうだった。
 床に座り込んでボルトなどを数えつつ、千景が聞いた。
「組み立てた後、いっしょに晩ごはん食べに行かへん?」
〝いっしょに〞というのは将も含めてということだった。
「私も?」
「ごはんは人数多いほうがいいから」
「それはそうだね」
 と駒子は同意したが、なにか理由があるのかもしれないし、もしかしたら自分に気を遣っているのかもしれないとも思った。
 駅からこのマンションまでの道に新しくできた焼き鳥屋に行ってみたいと少し前に話していたので、そこに決めた。
 ダンボールの上で、メインの枠組みとなるスチールのポールを立てていく。
「えーっと、こっちを下にして……、こまっく、そこ持ってくれる?」
 一メートル八十センチあるポールを、台になる枠にうまくはまるように、端を持って床と平行に保った。
「こういうのさあ、一人だと無理だよね」
 傾かないように気をつけながら、駒子は言った。
「通販サイトの説明にも、必ず二人以上で組み立ててください、って書いてあったし。普段は一人で生活してて困ることないんだけど、ときどき難所が発生するよね。千景さんがいてほんとに助かってるけど、そうじゃなかったら誰かに頼んでわざわざ来てもらうことになったのかなあ」
 駒子が以前に別の部屋で一人暮らしをしていたときには友達に頼んで来てもらったことがあったし、つき合っていた人と住んでいた部屋に彼があまり帰ってこなくなった時期には、彼から「次の休みになったらやるから」と言われると友達にも頼みにくくてよけいに困ったこともあった。
「これくらいやったら一人でもどないかなるもんやけどな。もっと大きいのは、有料組み立てサービスがあるとこもあって、それもありやけど、結局金次第かとも思うよなー。子供のときNHKでやってた『プリンプリン物語』って人形劇で悪役が、お金さえあればなんでも手に入るー、って歌ってて、未就学児としてはそんなことない! って思てたけど、その通りやったな」
 千景はその歌の覚えているところだけを歌って笑った。
「そうだね、お金で解決できることはたくさんある。でもそのお金を得るのにどうしたらいいかの解決法はなかなかないのが問題」
「ほんま、それ」
 二人が笑ったり愚痴を言ったりしている間に、シェルフは着実に組み上がっていった。
「こないだアユミちゃんが言うてたやん、人の手を借りたいから結婚するんかなって」
 先週、一月の終わりの金曜日にいつものごはんを食べに行く友人たちと遅めの新年会と称して新大久保の韓国料理の店に行った。鴨の焼肉がこの日の目当てで、大根の薄切りの漬物にほどよく焼けた鴨肉を巻いて、おいしいおいしいと言い合いながら、どこからかそんな話になった。
 だいぶ前に彼女がインターネットでたまたま見た婚活業者の広告が、女性向けのほうは若い女性が子供を連れたカップルを見る画像に「しあわせになりたいな」と書いてあり、男性向けは一人暮らしの殺風景な部屋に夜遅く帰ってきた男性がなにもないテーブルを前にして「そろそろ嫁さんほしいな」と書いてあるものだったらしい。さすがに今はそこまで露骨な表現は炎上するからもっと取り繕った文言になっているが、女性側男性側のそんな期待のずれはまだまだあるんじゃないか、と、彼女は話した。
 ごはんを食べに行く友人グループには結婚している人も子供がいる人もいるが、その日参加していたのは千景と、駒子と同い年のもう一人が離婚経験者で、結婚経験のない友人が三人だったので、結婚に対してどちらかというと懐疑的な話に転がった。
 その日いちばん年上だった一人は、マッチングアプリに登録して何人か会ったことがあるが、一人はやたら条件の確認をしてきてうんざりし、その次に会った人は美術展に行くのが趣味でそれなりに意気投合して三か月ほどつき合ったが向こうの職場環境が変わって連絡が減り、フェイドアウトしたらしい。しかし、学生時代の友人が少し前にマッチングアプリで知り合った人と結婚してうまくいっているからまた誰かと会ってみようかと思っているとのことだった。
「助け合いといえば助け合いなんじゃない?」
「片方がお金で片方が家事労働に固定した助け合いになるのがよくないわけで。どちらもが話し合ったり納得して助け合えるならいいよね」
 などと言っていると、また別の一人が、 四、五年前に交際ゼロ日で結婚した職場の同僚がいる、という話を始めた。
 同僚の女性は、仕事でときどき会う程度の関係だった男性とあるとき世間話をしている中で、自分たちが結婚したらうまくいくのではないか、ということになって結婚したらしい。それ以来、その同僚女性は結婚や恋愛の話題になると、恋愛やときめきは結婚にはかえって判断を狂わせる原因になるし、一時の感情に振り回されるよりも共同生活の相手として条件と価値観が合っている人とビジョンをしっかりすりあわせての結婚生活のほうが精神的に安定する、人間としても成長できる、と話すのだった。
「そういう話、たまに聞くじゃない? 彼女の話も納得するとこは多々あるし、確かに夫の人との関係もよさそうなのよ。でも、言いにくいけどずっと気になってることがあって」
 友人は言葉を探す数秒のあとに続けた。
「つき合う期間まったくなしで結婚するって、セックスはする前提なの? それとも、結婚するか決めるときに確認するの?」
 駒子や千景も含め、他の参加者はお互いの顔を見てどう答えようか考えた。
「もちろん、そこも相手と価値観が合ってればハッピーだよ。その同僚は子供はいないんだけど、大学の同級生で長い間友達だった人と突然結婚した人がいて、そこはしばらくして子供が生まれたから、ああ、そうなのねって。下世話な話に聞こえたら申し訳ないんだけど、そうじゃなくて、私は友人関係の異性と性的な関係に変わるって考えられない、っていうか、恋愛でかなり浮かれた状態にでもなってないとそういう感じになれないタイプだからさー」
「確かに、性的な関係とそれ以外の人間関係のありかたって、人によってだいぶ違うもんね。セックスしてからでないとつき合うかどうか決められないって人もいるし」
「性的に合うか合わないかじゃなくて、人との距離感の問題っていうか」
「似たようなことは、私も思うことある。恋愛関係と違って共同生活者だって強調されると、たとえば友達とシェアハウスで住むのとはやっぱり違うんですよね、ってちょっとよぎる」
「セックスがあってもなくてもそれは当事者たちのことだから立ち入るつもりは全然なくて。ただ、共同生活する相手を見つければいいんだって強調されると、どこかもやっとするというか……。その共同生活はなんで男と女で、結婚じゃないとだめなの、っていうのもあるし」
「男女の結婚はやたらと推奨されるのに、愛で深く結びついてても同性婚はまだ認められないしねえ」
「未婚でも離婚でもシングルマザーは肩身狭いし」
 あちこちに逸れたり噛み合ったり噛み合わなかったりしながら結婚にまつわる話は続いた。
「とにかく、まだまだ結婚は世間からあれこれ言われなくて済むための最強カードだよ」
「だよねー。さらに子供がいたら最強二枚。もちろん、今の世の中で子供育てるのはめちゃくちゃ大変だよ。友達にも保育園落ちまくったり鬱状態になりかけたりした子もいて、少子化ヤバいって散々言っておきながら支える制度なさ過ぎだろ、って思うし。お金の面でもね。子供育ててる人全員偉すぎる、って毎日思ってる。結婚しても、子供いても、なんだかんだと言われるのもわかってる。でも、結婚してないと仕事してることもつらいことも全部自分のわがままに思われるっていうか、つらいとか大変とか言っちゃだめだって、自分でも思ってしまう」
「親とか周りの人が結婚したほうがいいって言ってくるのは、スイッチオフにして受け流してる。三十三歳のときに親戚が五十代のバツイチの人との結婚話を持ってきたときはさすがにぎょっとしたけどね」
「去年、母校の行事に参加したら、年配の女性から当然のように『お子さんはおいくつ?』って聞かれて、いません、結婚してないですし、って答えたら、『ええっ』って訃報でも聞いたかのように驚かれちゃって、こっちがびっくりしたっつーの」
 あはは、とそこは全員が笑った。
「そうだねえ。ぶっちゃけて言っちゃうと、未婚より離婚のほうが世間からあれこれ言われないカードではあると思う。離婚のつらさとか大変さはいろいろあったけど、バツイチで、っていうとそれ以上詮索されない」
 離婚経験者の友人が言うと、その隣に座っていた千景が少し間を置いてから頷いた。
「まあ、そういうとこはあるな」
「最近は、離婚した女友達には、おめでとう、って言うこと多いしね。昔に比べたら、離婚に対するマイナスイメージはだいぶ減った」
「四十歳前後は離婚ラッシュくるよねー」
 鴨肉も大根の漬物もあっという間に減って追加注文をし、大きな碗に入ったマッコリも三杯目を頼んだ。
「離婚してもいいからとにかく一回は結婚しとけ圧があるよ。標準的な人間として認められるために」
「結婚が唯一の正しい物語、って圧はあるよね。芸能人もさ、つき合ってる間はひた隠しにして週刊誌に撮られたら熱愛『発覚』って悪いことがバレたみたいな扱いだけど、結婚ってなったらいきなり『全国民が祝福』って見出しになるもんね」
「こないだ、長いことつき合ってたのに隠し通して結婚を発表したカップルが「アイドルの鑑」なんて記事に書かれててもやった。結婚してなくても、結婚にはならずに別れても、二人の間にそのあいだいい関係があったんだったら幸せなことなのにね」
 笑ったり憤慨したり、食べたり飲んだりしながら、駒子は、母と父の姿を何度か思い浮かべたのだった。
 千景は、その新年会の話を少し繰り返してから、
「あのとき言わへんかったけど」
 と話し出した。
「確かに、バツイチですって言うと、それ以上突っ込まれないし、今の世の中での結婚してない人が感じる不安定さみたいなのもすごく想像できるんやけどね」
 四隅の支柱になるポールは組み上がり、千景と駒子はタイミングを合わせてそれを立てた。
「バツイチで子供がいるって言うたら当然子供と暮らしてると思われることが多いんやん。シングルマザーは大変でしょうって同情してきた人が、私じゃなくて元夫のほうが子供を引き取ったってわかると、反応がくるっと変わることもあったりして」
 千景の表情はほとんど変わらず、ポールに金具を取り付けていく手も止まることはなかった。
「なんかよほどの事情があるんちゃうか、って勝手に推測されたこともあったなあ。向こうの親が孫を離さなかったんでしょう、みたいな」
「そうかー」
 駒子自身も、千景から最初に離婚して子供がいると聞いたときにはいっしょに生活しているとなんとなく想像していたことを思い出して、言い淀んだ。勝手に事情を推測するほどではなかったものの、先入観があったことは否めない。
 千景は淡々と話を続けた。
「私、自分の母や父や地元から離れたくて結婚したんよね、あとになって考えてみれば」
「そう」
「元夫、光太朗(こうたろう)っていうねんけど、東京の人やけど転勤で京都で働いてるときに知り合って。二、三年したら東京に戻るってわかってたから、この人と結婚したらここから離れられる、って思ったんよね。この機会を逃したら、私はずっと母のことを助けなあかんと思って生活することになるって。私はそのとき二十二歳で働いて二年目やってんけど、給料の半分は家に入れてたし、家事もほぼ私がやってて。結婚しても、近くに住んでたらなんやかんやと母のことを気にして、仕事もなんでも母の都合を考えて決めてしまうな、と。それに、私の年代では、女の子は結婚するまで実家を出ないのがまだまだ当たり前っていうか、関西やとなまじ進学先も就職先もようさんあるもんやから、なんでわざわざ家を出なあかんの、ってなるんよね。地元しか許さないとか言われてるわけじゃなくても、たいていの子はうっすらそれを内面化してるというか。一人暮らしの女子は採用しない会社も多かったしね。ていうか、今も近所の友達には、実家で家族の世話してたり、結婚して子供いても実家の近くに住んでなんやかんやと手伝ってる子も多い。仲がよい関係なのはそれでいいんやけど」
「それは、なんとなくわかる」
 駒子は、一度出た実家に経済的な事情で戻らざるを得なかった時期があった。
 そのときは花屋の二階ではなく、駅からバスで十分ほどの両親が住む小さい一戸建てだった。父の伯母たちからは「女の子なんだから、無理して一人暮らしなんてしなくていいじゃない」「お父さんも娘がいっしょでよろこんでるわよ」「かえって親孝行よね」などと言われ、なんともいえず悔しかったことを思い出した。
「結婚してすぐ妊娠して、そのタイミングでちょうど光太朗が東京に戻ることになって。光太朗の実家の敷地内に元は祖父母が住んでた家があったから、そこに住んでんやん。光太朗もその両親も、おおらかでいい人で。これは気を遣って言うてるとかじゃなくてほんまやで。疲れ切った母の顔色うかがったりお金の心配したりする生活じゃなくなって、すごいほっとしたんよね。あれ? 世界ってこんなに明るかったんや、みたいな感じになった。それまで暗いって思ってなかったけど、明るいところに出てみたら、ずっといてた部屋はあんな暗かったんや、全然見えてなかったんや、って驚く感じ」
 それもなんとなくわかる、と駒子は胸の内で言って、頷いた。
「東京の生活も目新しくて楽しかったしね。子供が産まれたら思った以上にかわいかったし、向こうのお父さんもお母さんもかわいがってくれるし手伝ってくれるし、私が働くのもサポートしてくれて。こんなに恵まれた環境ある? って逆に不安になるくらい。それでも子供育てるってやっぱり大変ではあったから、そのころには、母も私が産まれたときは若かったんや、今よりもっと大変な時代に看護婦の仕事も続けて、苦労したやろうな、って考えるようになって、けっこうマメに母に電話して話したりしてたんよね。
 でも、将が小学校に行きはじめて、次に下は女の子で未来(みく)っていうんやけど、未来もしっかりしゃべったりするようになってきて……」
 そこで千景は言葉に詰まり、動かし続けていた手も止めた。何度か大きく呼吸をしてから、続きを話した。
「昔のことやから今とは感覚が違うっていうのはわかってるんやけどね。母は注意したり怒ったりするときに私を叩く人やったんよね。虐待とか、そんなひどいあれじゃないで。この、肩の辺りとか、おしりとか。昔はよくあったんよ。ベランダに閉め出されたりも。未来が私の子供のときの写真の顔によく似てるっていうのもあって、そういうのを急に思い出すようになって。もちろん、悪いことをしたら怒られるのは誰でもあるけど、小学校に入ってすぐぐらいのときに、なんで片づけてないの、あんたみたいなわがままな子は恥や、ってごはん食べさせてもらえないことあったな、とか」
「え……、それは時代が違うとはいえ、ちょっと行きすぎじゃない?」
 と駒子は言ったが、千景はそれに直接は答えなかった。
「未来を見てると、こんな小さい子にあんな剣幕で怒ったり叩いたりするかな、って思い始めて。それに、向こうのお父さんとお母さんがやさしいもんやから、将も未来も多少大騒ぎしても、だめって言われたことをやったり、できないことがあったりしても、ちゃんとわかるようにゆっくり言うのよね。私にも、子供は言うこと聞かないものだからだいじょうぶよ、なんてにこにこしてね。
 それにすごく助けられたんやけど、どこかで、子供のことを羨ましいというか、こんな環境で育っていいな、私が同じことをしたらあんなに怒られたのに、ってそれこそ子供の嫉妬みたいな気持ちがちょっとずつ出てくるようになったんよね。
自分の子供に対してそんなふうに思う自分がどんどんつらくなっていって。光太朗も両親もすごくいい人で、これ以上ない環境やのになんで私はこんなしょうもないことを考えてるんやろう、昔のことをいつまで根に持ってるんやろう、って。思い出すのをやめようと思えば思うほど、急に子供のときの、怒られたときだけとちゃうくて、疲れ切ってる母の背中をさすってたりわざと明るい調子でしょうもないこと言うて笑ってもらおうとしてたりしたことが、浮かんでくるようになって」

                                 (つづく)

 

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