2切れのヒレカツ

とんかつを黙々と味わい続け、終盤カツが残り3切れほどになってしまったころ、隣で食っていた50過ぎほどのおじさんが私に話しかけてきた。

「あんちゃん、いい食いっぷりだねぇ。もしよかったらこのヒレカツ食うかい? おじさん年だから腹いっぱいでねぇ。すごくおいしいよ」

鈴木もぐら
鈴木もぐら「母親からの『今日は東京軒行くか?』のひと言で、『そうか。今日はそんなにもめでたい日だったか』と実感した」(写真:『没頭飯』より)

おじさんの皿の上には、手を付けていないヒレカツが丸々ひとつ、計2切れが残っていた。

じつは私はロースとヒレの2種類しかないメニューの中で、ロースしか食べたことがなかった。

ロースはこってり、ヒレはあっさり。食べ盛りの私はそんな常識は知っていたので、ほんとうにたまにしか来ることのできない東京軒であっさりとしているヒレを頼む勇気がなかったのだ。ただ、ロースを食べれば食べるほど、心のどこかでヒレへの渇望が増していく。

いつか、東京軒のヒレカツを食べてみたい。

その想いは、心の片隅にじっと潜んでいた。そして、それを実現させてくれるおじさんが急に目の前に現れた。私の胸は弾んだ。パンパンになって膨れ上がったハートに、針を突き刺されて、希望がはじけた。そんな気持ちだった。

「いらないです」

私は、即座に断った。

「いいのかい?」
「はい。いりません。ありがとうございます」

ヒレカツがのった皿は、大将のもとへ下げられた。

「タダより高いものはない。いいか、貧乏だからって人様からなにかものをもらうなんてことは絶対にするな」

隣でロースを食っている母の教えだった。私は、その教えのせいか極度に遠慮がちな子どもだった。この教えは、「貧乏を盾にして甘えるな。自分の力でなにかできるように努力をしろ」という意味が大きい。

しかし、なにかものをもらうということは、なにかをお返ししなければならない。そんなことをする余裕はこの貧しい家にはない。そんな状況も、口酸っぱく母にそう言わせていた一因だと私はわかっていた。

「ごちそうさまでした」

ヒレカツは食えなかったが、じゅうぶんに腹も心もロースで満たされた。