着物が包んであるたとう紙には、母が鉛筆で書いた着物の名称などが詳しく記されており…(写真:stock.adobe.com)
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亡き母の銀行通帳

75歳まで家業の手伝いをして仕事一筋だった母が89歳で亡くなりました。もうすぐ90歳だったのにと、家族で話しながら母のことを思い出します。

私の結婚が決まったとき、母は呉服店に行き、たくさんの着物を準備してくれました。今ではあまりこの風習は残っていませんが、1980年では普通のこと。黒留袖、付け下げ、訪問着はもちろん、道行コート、夫になる彼の大島紬の着物まで誂えてくれたのです。

総桐たんす7棹を用意してくれ、トラックで家具店から運ばれてきた際には、部屋が埋め尽くされるほどに。着物が包んであるたとう紙には、母が鉛筆で書いた着物の名称などが詳しく記されており、40年経った今もはっきり残っています。

母が亡くなり、部屋を片づけていると、引き出しの中からたくさんの銀行の通帳が見つかりました。1冊1冊見ていたら、私の結婚した年が記帳されており、そこに記されていた引き出し金額は150万円。父が亡くなったときも、同じように銀行の通帳がたくさん見つかり、やはりこの時期にかなりの額が引き出されていました。

当時、私も仕事をしていましたが、洋服や化粧品代に使っていたため、結婚にかかる費用はほとんど親任せ。私は長女だったので、並み以上に、と準備をしてくれたと思います。おそらくそこには、親の見栄もあったはず。地元は特に結婚式が派手な地域で、「娘3人いたら家が潰れてしまう」と言われていました。

当時の結婚費用は今よりずっと高額だったことでしょう。嫁入り道具はトラック3台分、新車の自動車までつけて嫁に出すことが普通でした。それを、私はどこか当たり前のように受け入れ、大して感謝していなかったように思います。両親からの大きな愛に、今になって気づいたのです。

親不孝した思いでいっぱいになり、仏前には母の大好きだった大福もちやケーキを供えています。「親の心子知らず」と言いますが、今は両親を思って手を合わせる日々です。


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