その後、大川小学校は震災遺構となった。市が設けた伝承館では「人災」に関する展示が乏しく、校舎は老朽化が進むなど、伝承や保存をめぐる課題は山積。だが、多くの人が訪れ、特に教職者が全国から足を運んでいると聞く。
84名の命が失われた実際の校庭に立ち、あの日、あの時を想像する。そんな貴重な機会がのこされたのも、「失敗をせめて教訓に」という遺族の執念があってこそだ。
近年は、遺族とボランティアがともに準備をし、3月11日の校庭に竹あかりがともされる。初めて準備の輪に加わった日、私は遺族の穏やかな表情に出会い、嬉しくなった。冗談を言い合い、声を立てて笑いながら、手作りの昼食をふるまってくれた母親たち。その姿は、住民同士の結びつきが強かったと聞く、今はなき大川地区の日常を一瞬、よみがえらせるようだった。
昨秋には、お隣りの南三陸町で見つかった骨のかけらが、約100キロ離れた岩手県山田町で行方不明になっていた当時6歳の少女のものと判明。14年7ヵ月ぶりに家族のもとへ帰還というニュースに、目が覚めるような衝撃を受けた。東日本大震災での行方不明者、約2500人。震災後15年は、まだまだ「途上」なのだ。
「死」が特別なものではなく、日常の話題として語られる被災地。誰かの話に耳を傾け、言葉を選びながら語り合う。深い理解と共感が、互いを励まし、癒やす。そうした土壌に、不謹慎かもしれないが、私はある種の豊かさを見ることがある。