天守閣に放火し焼死

『信長公記』には、久秀は天守閣に放火し「焼死」したとあります。

戦国から江戸初期の興福寺多聞院院主の日記『多聞院日記』(天正5年10月11日条)には、昨夜、松永久秀・久通親子が「腹切自焼」したと記述されています。

久秀らの首は安土に送られ、織田軍は引き上げたとのこと。

『多聞院日記』には、奈良の大仏殿が焼けたのも(1567年)10月10日であったとし、久秀が死んだのも10月10日であると記されています(大仏殿が焼けたのは、久秀の仕業と考えられていました。しかし大仏殿に火をつけたのは誰かについては諸説あります)。