洋上で知った世界大戦の始まり
廣田さんはもっとも熱心に即刻ドイツ行きをすすめられた一人だった。シンガポールなどに一日いれば一日いるだけ、私の芸術はスポイルされるし、三浦だってそうだ、と真心をこめてドイツ行きの相談に乗って下すったのだった。一つには、シンガポール迄も後を追って来ようという、千明の執着も恐ろしかったし、私はまたもや倉皇としてドイツ行きの便船に三浦と共に身を托したのであった。
一九一四年の七月、私が二十九歳の夏であった。さらでだに暑い印度洋を越えて、ポートサイドを、私達の船が通り過ぎる頃、オーストリーの皇太子が殺されたことを知った。そうして世界大戦の幕の切って落されたドイツへと、私は運んで行かれたのであった。
しかし乍ら、私は今から考えて見ると、あの欧州の大戦争は、少なからず自分の生涯にとっては利益を与えてくれたように思うのである。
もし、欧州の大戦争がなくて、私が平凡にドイツで勉強していたら、或はこんなに早く世界の檜舞台に認められはしなかったかも知れない。騒然とした戦乱の巷で、人々は反動的に音楽などを熱望しており、また慈善音楽会などの機会も、多く私に恵まれて、やすやすと檜舞台へおしあげられたことは、戦争が私に与えた一つの幸運に違いなかった。
ドイツについたなら、さっそくニリー・レーマンに師事して勉強したいと考えていたが、丁度伯林(ベルリン)は夏休みで、それは果されなかった。ともかくも三浦も勉強を初めなければならないので、シャルロッテンブルグのある小さいアパートに居を定めたのであった。
いかにも戦雲の去来あわただしい伯林だった。