「貴女は礼儀を御存じない」
(六)
当時は、このいつ果てるとも解らない大戦争が、自分の生涯に幸いしてくれるとは思っていないから、私の向上心も、野心も、やむなく挫折された形で、つくづく自分の身の不運をかこたないではいられなかった。
ロンドンでは或るスコットランド人の家に下宿していたが、これがまたひどいクリスチャンで、私はしばしば宿のおかみさんのために苦しめられたのであった。
ともかくも三浦はロンドン医科大学のスタンリン博士のもとに弟子入りして毎日学究の生活を送ることになったのだが、困ったのは私だった。なにしろ三百円の金ではどうすることも出来ないのである。加ふるに宿の女房(かみ)さんはスコットランド人の吝嗇をあらわに見せ初めて、気の弱い私は三浦の留守の間、歌の勉強も手につかず、毎日泣かされてばかりいる有様だった。
私が晩飯のソーセージを食べずに残すと、お女房さんは、やかましくいうのである。
「ね、マダム・ミウラ。貴女がソーセージを召し上らないのはどういう訳なんでしょうね。」
「ミセス・バートン。どういう訳って、訳も何もありやしませんわ。ただお腹が一杯なんですもの。」
「否(いいえ)、貴女はまだ礼儀を御存じないんですわ。英国流のね。英国ではね、クイン・アレキサンドルはお残しになっても仕方がないけれど、クイーン・メリーでさえソーセージを残すのは許されないとされているんですよ。第一、マダム・ミウラ。ソーセージのことはともかくとして貴女は御自分がいろんな御用をしているのをやめて迄、ミスター・ミウラを毎朝門の所迄送っていらっしゃるのは、どういう訳なんですの。」
「だってあれが日本の礼儀なんですよ。」
「へええ、随分無駄なことですね。第一、みっともないから御やめなさい。」
私はこれには少なからず辟易した。貴女がピア音をたたくからピアノが悪うなったから修繕費を出しなさいとか、ストーブの傍で本をよむ癖があるから、御覧なさい此通り椅子の背中が焦げてしまったから、この椅子は買って下さいとか、御話にならない女房さんだった。私は英国へついてから、三井支店の当時の支店長南條さんの奥さんと御親しくして頂いていたが、私は何度この下宿を泣き乍ら南條夫人の下へ逃げ出したか知れなかった。