それは私の芸術的死活問題
私はこんな風のロンドン生活にくさり果てて、三浦にも内緒で、そっと、当時ロンドン第一のコンダクター〔指揮者〕といわれたサー・ヘンリー・ウッドに、一度自分の歌を聞いて貰いたいと手紙を出したのであった。
が、勿論訳もわからない日本の音楽家に対して、彼は返事をくれる筈もなかった。が、私は決して失望しなかった。
二度目に出した手紙にも返事は来なかった。これもまた宿の御女房さんのいうように英国流の礼儀というのであろうか。紹介者もなしに若い女が手紙を出すというのは、明らかに礼儀を外れたことかも知れなかったが、しかし、私は黙ってはいられない。どうでもしてサー・ヘンリー・ウッドに自分の声を聞いて貰うか貰わないかは、私の芸術的死活問題なのだ。何のために苦労してここまで来たのか。私はもう一度真情を吐露して、最後の手紙を認(したた)めたのであった。
そして、やっと私の苦心は報われた。サー・ヘンリー・ウッドから待ちに待った返事が来て明日貴女の歌を聞こうというのである。
私は長い間手紙を抱きしめて泣いていた。三浦を学校へ送り出してから、私はその手紙をお守のようにピアノの上に乗せて練習を初めた。明日、サー・ヘンリー・ウッドの前で、リゴレットを歌う決心が、もうずっと前から自分の心の中で定まっていた。
私の所へ、サー・ヘンリー・ウッドから手紙が来たというので、宿の女房さんの驚きようといったらなかった。
「マダム・ミウラ、貴女大丈夫なのかね、そして一体何を歌うつもりなの。」
「私はね、リゴレットをお聞かせするの。」
「まあ、リゴレットなんて、飛んでもない、そんなものが貴女にこなせると思ってるか知ら、それよりも今流行ってるロンドンの流行歌を歌ってあげなさい。」
私が笑って答えないでいると、女房さんはさも度し難しとでもいうような頭を振り振り出て行くのであった。
翌日サー・ヘンリー・ウッドは、日本人の私を極(ご)く丁重に迎え入れてくれた。私は少なからず自分の声に自信を持っていたので、彼の前で歌うことに少しも気おくれを感じていなかった。丁度其場にロンドン社交界の花形、海軍大臣の御母様のレディ・チャーチルも来合わせていられて、御二人で私の歌を聞いて下さることになった。
私は歌っている最中から、既に明らかにサー・ヘンリー・ウッドも、チャーチル夫人も、感動していられるのを見てとって、ますます歌に油の乗ってくるのを感じた。
私が歌い終ると、黙って立って来た御二人は両方からしっかりと私の手を握って喜んでくれたのであった。
「マダム・ミウラ。貴女の声は実に美しい。貴女はもう此上(このうえ)何も勉強する必要はないではありませんか。」
私は誰にも習ったのではない。日本で勉強したそのままなのだという、と、サー・ヘンリー・ウッドは感嘆してもう一度私の手を握り乍らいうのだった。
「マダム・ミウラ、それだけ御歌いになれれば、貴女は貴女自身のものをちゃんと持っておいでになるんですよ。私が何を御教えすることがありましょう。で、一つ私に御願いがあるんですが、貴女は聞いてくれませんか。」
「何でございましょう。」
サー・ヘンリー・ウッドはチャーチル夫人を部屋の隅に連れて行ってしばらく話していられたが、やがて戻ってきて、
「それでね、今もチャーチル夫人と御相談したんですが、来月赤十字の慈善大音楽会が、アルバートホールであるんですがね、御存じですね、英国でも三大音楽会の一つです。それに貴女出て頂きたいんですがどうでしょう。」
「アルバートホール?」
私はしばらく口を聞くことが出来ない位だった。何というのか勝利の快感とか幸運の快感とでもいうのであろう。自分の身内がジーンと鳴りをひそめて行くようなあの一瞬の気持。私が名立たるアルバートホールで歌う。世界の無数の音楽家達が生涯に一度はふんで見たいと夢に迄あこがれる檜舞台のアルバートホールで私が歌う。これが本当に事実なのだろうか。私は、サー・ヘンリー・ウッドの下を辞して帰る途中で、まるで雲の中を行く思いだった。