混乱するベルリンから決死の脱出
千明秀作は、しふねくも私達の後を追って伯林迄ついて来ていた。しかし私には三浦が一緒にいる以上そう易々と近よることもならず、やがてはあきらめたのか、また新しい女の問題を起したのか、人の噂さに聞いたのだった。そして思いがけないことには、不意に彼は伯林の空で客死してしまった。
ウンテルデンリンデンの通りには今日も明日も、出征兵士の列が長く続いた。私も三浦も何一つ勉強するどころのさわぎではない。
しかし、こうしていても仕方がない。今夜こそ赤十字の慈善音楽会で、自分も日本の歌を歌わして貰おうと思って、或夜日本の大使館へ出かけて行ったのだった。ところが、大使館の人達は私の顔を眺めていうのだ。
「飛んでもない、三浦さん、それどころのさわぎじゃないんです。今夜にも伯林の日本人は皆退去するように、本国から命令が来ているのです。」
「え? ではとうとう日本も。」
「そうですよ。もう一刻もぐずぐずしていられない。直ぐに帰って旅の支度をして下さい。」
日本から持ってきた四千円は、旅費や生活費に千円を既に使い果たして、残りの三千円は伯林の銀行に預けてあったが、一日に三百円以上は支払うことが出来ないというので、私達はその三百円を命の綱に、着のみ着のまま、落人の如く、英国へ向ったのであった。
あの夜の旅の有様を私は終生忘れることは出来ないであろう。日本の留学生は二百人あまり、一行の中(うち)には前田侯爵なども御一緒だった。汽車の一等二等はすべてフランスの国境へ向う兵士達で占領されて、私達は暗い三等車の片隅に慄(ふる)えていなければなかった。
出来るだけ日本人であることを気付かれないために、私達はなるべく口を聞き合わないようにして固まりあっていた。
途中の暗い小駅で、私達と一緒に本国へ送還されていた英国人達は、下ろされて引っぱられたまま帰ってこなかった。
次ぎの駅ではいつそれが自分達の身の上になるかわからない。せめてドーバー海峡を渡る頃迄、否国境さえ越えればいい。それ迄日独の宣戦布告をのばして貰いたいと皆で祈っていた。
ようやく何事もなくドーバーを渡っている私達に、欧州の戦雲はようやく重く、暗いドーバーの波の音は、さらでだに憂鬱な私達の旅愁を、いやが上にもそそるのであった。