九
行灯に明かりを点す。
闇に沈んでいた部屋が、仄かに明るくなる。
おゑんはもう一基、行灯に火を入れた。客間だから、どちらにも上等の油を使っている。咲いたばかりの花に似た微かな芳香が漂い、座敷は臙脂(えんじ)色の明るさに満たされた。
その明かりの中で、客の女と向き合う。
「驚きましたよ、お秀さん」
目の前に座る客、三朝屋の娘、お秀に本音を伝える。
驚いた。
五年前、父に子を孕んだと疑われ、おゑんの許に連れてこられた娘だ。娘の腹の子を堕ろしてくれと父親は乞うた。しかし、娘は生娘で、子を孕むことなどあり得なかったのだ。つまり全てが父親の誤解、あるいは思い込みに過ぎなかったことになる。おゑんは事実を告げ、父親をそれとなく窘(たしな)めた。
あのとき、謂われない叱責を受け、身を縮めていた娘は今、にこやかに笑みながら臙脂色の光の中に座している。
「お秀さん、所帯を持たれたんですね」
「あ、はい。ちょうど一年ほど前になりますが、婿を迎えました」
お秀が鬢(びん)の毛をそっと撫で上げる。眉も剃っていないし、歯も白いままだが、髷は島田から丸に変わっていた。その姿にもちょっとした仕草にも、二十歳(はたち)前の女の色艶が滲んでいる。途方に暮れ、迷い子のような眸をした少女は、もうどこにもいない。
「それは、おめでとうございます。それじゃあ、今、お幸せでござんすね」
「はい。とても」
お秀は躊躇う間もなく、答えた。ほんの少し、頬が赤らむ。装っている風ではなかった。
「あたし、一人娘なので、三朝屋を継がねばなりません。だから、お相手に婿入りしてもらったんです」
「嫁に行こうが婿を取ろうが、夫婦(めおと)は夫婦。お秀さんがその方とお幸せなら何よりですよ」
本音だ。「今、幸せだ」と口にできる女がいる。それを言祝(ことほ)ぎたい。安堵もする。ただ、首を傾げもするのだ。
それなら、なぜ、あたしを訪ねてきた?
おゑんの許に寄ってくる女で、「幸せだ」と言い切れる者は少ない。いや、ほとんどいない。記憶をまさぐってみても、お秀が初めてかもしれない。
たいていの女はぎりぎりまで追い詰められ、身も心も、生きることにも疲れ切り、おゑんの許に辿り着くのだ。“不幸せな女”と、容易く一括りにされてしまう者たちは一人一人、それぞれの不幸せも不運も重荷として背負い、這うようにしてやってくる。その女たちの後ろには、荷の重さに潰され、這うことすら叶わなかった女たちの群れがあった。どんなに手を伸ばしても、おゑんの力では救いあげられない何百という女たちだ。
お秀は追い詰められてもいないし、疲れ切ってもいない。重荷に喘いでいる風もない。
「お秀さん、今日はどんなご用でお出でになったんです」
真っ直ぐに問うてみる。ここで腹の探り合いをしても無駄だ。
頬を染めて己の幸せを告げる女が、告げられる者がなぜここにやってくる? おゑんにはどんな答えも思い浮かばなかった。
「先生にお会いしたかったからです」
この上なく無邪気な返事だった。
「あたしに会いたかった? お秀さんがですか」
「はい」
「何のためにですか」
我ながら間の抜けた物言いだが、こう問うしかなかった。
「先生にお礼が言いたくて、それと、今のあたしを見てほしかったんです」
不意にお秀は両手を広げ、おゑんに笑いかけた。部屋のそこここに溜まる闇を払うような笑みだった。白い歯が美しい。
「五年前に先生に助けていただいたでしょ。だから、今のあたしがあります。あのとき、先生がおとっつぁんに説いてくださらなかったら、どうなっていたか。もしかしたら、別の医者に連れていかれて、酷い目に遭わされていたんじゃないかって……考え過ぎかもしれませんが、あのころのおとっつぁん、ほんとに怖くて……。でも、先生がおとっつぁんを説得してくださったから、万事、上手く収まりました。大人になって思い返したら、あたし、先生にとても大きな恩があるんだなとわかったんです。それで、お礼に……というか、幸せな今のあたしを見ていただこうと思い立って参りました」
「まあ、それはえらく義理堅いこと。あたしはあたしの仕事をしただけですからね、恩なんて感じてくれなくていいんですよ。治療代もたっぷりといただいたことですしね。けれど、あのときの娘さんが、こんなに幸せそうなお内儀さんになっている。その姿を見せてもらえたのは、ありがたい。ええ、素直に嬉しいですね」
嘘ではない。ささやかな関わり合いではあったが縁は縁。一時、縁の結び付いた相手が他人に誇れるほどの幸せを得たのなら、嬉しい。ちょっとした褒美を手渡された気分だ。
なのに、引っ掛かる。
何に? あたしは何に引っ掛かっている?
その“何” に思い当たり、おゑんは少しばかり眉を寄せた。
「お秀さん、三朝屋さんはお元気なのですか」
一瞬だが、お秀の表情が強張った。笑みが消え、目付きが鋭くなる。
「お秀さん?」
「あ、はい。あの……どうして、おとっつぁんのことを?」
「どうしてだか、気になったんですよ。どうしてでしょうね。で、三朝屋さん、お元気なんでしょう。それとも、お秀さんに婿が来て一安心、そろそろ隠居でもしたいなんて話が出ているんでしょうか」
「それが……」
お秀が目を伏せる。
「おとっつぁん、一月……いえ、もう二月前になりますが、卒中で倒れて……何とか一命は取り留めたのですが寝たっきりになってしまって……」
(この章、続く)












