徳川慶喜家は分家ではありません
徳川十二家それぞれの家には現在も当主がいて、それぞれの歴史があります。その歴史を尊重しないで、勝手なこと、間違ったことを語る(騙る)人たちを私は「家の歴史泥棒」と呼んでいます。
徳川慶喜家が分家として扱われることもあるのですが、それは間違いです。ネット上には誤った情報が出ている場合もあるので、注意が必要です。
徳川幕府の第十五代将軍だった慶喜公は、徳川幕府が握っていた政権を朝廷に返上する「大政奉還(※)」を行いました。このことが明治維新につながっていきます。
宗家に田安家より家達(いえさと)(幼名・亀之助)を養子に迎え後継者を立てていたこともあり、慶喜公自身は《宗家の一員》という立場になりました。ですが、明治35年(1902年)に公爵の授爵があり、あらためて徳川慶喜家がつくられたのです。
明治天皇が、慶喜公は宗家の庇護を受けるのではなく、宗家と同等の立場にあるのがふさわしいと考えてくださり、この授爵につながりました。このようないきさつから見ても、徳川慶喜家が宗家の別家や分家として扱われるのは違うことになるわけです。
それでもやはり徳川十二家の中でも宗家だけは別格と見ることはできます。慶喜公も宗家の当主でしたが、家達様にお譲りした以上、宗家のことは全て家達様の取り仕切ることとして、たとえ意見があっても何も言わずにいたようです。
※大政奉還:徳川幕府が保持していた政権(大政)を朝廷に返すと申し出て、朝廷がそれを認めたこと。慶応3年(1867年)10月14日に第十五代将軍・慶喜が奏上し、翌日、勅許された。ただし、その後も暫定的に徳川幕府が国内を統治していた。