慶喜公は大政奉還をし、全てを朝廷に返上しました。しかし、天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)様と和宮(かずのみや)様が「慶喜にはどのような天罰が命じられてもやむを得ないが、徳川家だけは残してほしい」と新政府に嘆願したため、明治天皇のおはからいにより、当時幼かった田安亀之助を慶喜公の養子とし、宗家を継がせることになりました。
天璋院様と和宮様に育てられた家達さまは「慶喜は徳川家を滅ぼし、自分は徳川家を立てた」と語っておられましたが、慶喜公はそういう言葉を聞かされても黙っていました。
慶喜公は本当に謙虚な方だったと聞いています。静岡で暮らしていたころ、明治天皇が乗られた列車が近くを通るとなった時には、きちんと正装して、遠くから立って列車を見送ったそうです。
時代を経ても、それだけ天皇陛下に礼を尽くす姿に、襟を正す思いです。
明治31年(1898年)に慶喜公は皇居に参内して、明治天皇に拝謁しています。その会談のあと、明治天皇は伊藤博文総理(※)に対して次のようなことを語られたといいます。
「今日やっと罪滅ぼしができた。なにしろ慶喜がもっていた天下を取ったのだからな。慶喜は〈浮世のことですから仕方がないでしょう〉と言って帰っていった」
徳川慶喜家に残されている史料を見ても、この後も明治天皇は何かと徳川慶喜家を気遣ってくださり、慶喜公は明治天皇を敬いつづけ、良き関係を築いていたことが確かめられます。
※本稿は『葵の紋を継ぎまして。』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
『葵の紋を継ぎまして。』(山岸美喜:著/KADOKAWA)
徳川慶喜家初の女性当主、家じまいに奮闘!
叔父の第四代当主、徳川慶朝に託されたのは、歴史ある徳川慶喜家の「家じまい」を果たすという、重い重い役割。嫁入りして離れたはずの家の当主になり、日々奮闘することに。前代未聞の「女性当主」ゆえに、なかなか受け容れてもらえない苦しさも。それでも、歴史に向き合う中で見えてきた「徳川慶喜家」のすがたとは――。





