「今度はどこにも逃げないよ」

2023年に舞台として公演された村上春樹の小説に、『ねじまき鳥クロニクル』(1994~1995年刊行)がある。近年メディアミックスされた村上春樹作品というと映画『ドライブ・マイ・カー』を思い出す人もいるだろう。『ドライブ・マイ・カー』の場合、妻とのディスコミュニケーションの末、結局妻は亡くなってしまい、夫婦のコミュニケーションは復活することなく夫が自らの痛みと向き合うことになる(原作が収録されている本のタイトルは『女のいない男たち』である)。

『ねじまき鳥クロニクル』の場合でも、夫婦間のディスコミュニケーションの末、妻は失踪してしまう。が、それに気づいた夫は妻を探し出し、コミュニケーションをもう一度取ろうとする。最終的に、妻がいる場所を見つけ出した夫は、「今度はどこにも逃げないよ」と答えるのだ。

三宅香帆
(写真提供:講談社)

「逃げて」、はっきりとしたクミコの声が僕に言った。「今ならまだあなたは壁を抜けることができる」
僕の考えていることが本当に正しいかどうか、僕にはわからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。
「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」
(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』新潮社、1995年)

「今度はどこにも逃げないよ」。

夫が妻にこのように言うまでの物語が、日本に、ほかにどれだけあるのだろう。