人を好きになるとじっとしていられないイタリア人

そもそも、私が知る限り、イタリアの人は男性でも女性でも誰かを好きになるとじっと黙ってはいられない人種である。禁断の恋であっても、好きになった人がいれば周りの人にはその相手を紹介し、その人がどれだけ素晴らしいのか絶讃し、そして自分が今どんなに幸せなのかを惜しみなく放出する。

それに対して周りは「こいつはもう……」と思いつつも、あえて野暮な倫理的アドヴァイスをすることはない。「悪いことはいわない、やめておいたほうがいいよ」と提案するのはたいてい経験者である。ただ、恋愛の只中にいる人物にはそんな忠告など、余計なお世話でしかない。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

ルールでは決められていてもそれに絶対従わなければならない、と彼らが思わないのは、イタリアという国が普遍性や信用の脆さを歴史の中でこれでもかというくらい経験してきたからかもしれない。カトリックという世界にしても、一般の人たちはそこにはびこる神父たちのペドフィリア問題や、ヴァチカン銀行の闇についてはだいたい知っている。神の前でとりあえず一生の愛は誓っても、心のどこかで、神をあてにしてても始まらない、所詮は自分が決めること、と思っている節はある。

ちなみにイタリアの場合、女性の既婚者が不倫をするというパターンは男性に比べて少ないような印象があるが、それはおそらく、子供たちが自分の情熱を注ぐ唯一無二の対象となり、彼らの存在だけで十分満たされてしまうからなのかもしれない。少なくとも私の周りの女性は、おおむね皆そんな感じだ。

旦那の妹も先日パートナーの浮気が発覚して別れたが、彼女にとって子供たちが自分の生き甲斐そのものとなってしまい、次の誰かを見つけたいという意志は皆無だと言っていた。夫から自分の求めるだけの愛情を返してもらえず不満を抱えて何十年も過ごしてきた姑も娘の良き理解者として、今では年老いた夫もあれだけ可愛がっていた息子も放置し、二人の幼い孫たちが彼女の生き甲斐となっている。