人が面白がるように書いてた

俊次とリュウの間には、長男の薫、次男の鴻、長女の勝子、三男の光雄、四男の文雄が生まれた。千代は生まれた子供たちを背中におぶってお守りをしたため、「私の小さい背中は、おしっこの乾く間がなかった」という(宇野千代『私のお化粧人生史』)。千代にとっては腹違いの弟と妹であったが、いずれも終生仲良しであった。それはリュウの子育ての仕方が立派で、千代に継子(ままこ)いじめをすることなく、常に千代を重んじながら、実子を教育したのが大きかった。そのため、千代もリュウを愛すとともに、腹違いの弟や妹の面倒をよく見たし、弟や妹も千代を慕った。後年に千代が書いた私小説には、そうした家族への思いが描かれている。

しかし、千代が初期に書いた「生きて居る父」「母よ」「三千代の嫁入」「生母」「墓参り」「お粂(くめ)叔母と私」「ランプ明るく」などからは、亡き実母への思い、俊次の残虐性、リュウが千代を特別扱いすることへの孤独感などが読み取れる。後年に千代は父親が好きだったと肯定しているが、初期の作品からそう読み取ることは難しい。千代は昭和44年(1969)に川端康成、丸谷才一と鼎談したときに、初期の作品を否定する発言を次のようにしている。

『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』(著:刑部芳則/NHK出版)

「自然主義の盛んなころでしたから、そういう影響も受けて、ことさらに偽悪的にえげつなく、人が面白がるように書いてたと思うんです。そのころのものはもうみんな失くしてしまいましたし、自分の前半生をかくすような意味で、振り返って読むのもいやなんです」「どうしても断絶したいんです」(「宇野千代をかこんで」〔『対談 日本の文学』〕)

そして、昭和52年(1977)に刊行された『宇野千代全集』全12巻には、初期の作品を収録していない。千代は晩年に自分の人生を振り返って、自由奔放な生き方をしてきたのは、俊次の性質を受け継いだのかもしれないと言っている。千代は、俊次の血を受け継いだことに怖れを抱きつつ、徐々に自分のなかで父の生き方を受け入れるようになったと考えられる。そうした価値観の変化から、後年に初期の作品を否定するようになったのである。その生き方については、その源流が彼女の幼少期に見た父の姿、故郷で聞かされた父の話にあることを記憶しておいてほしい。