岩国の海老茶式部

千代は明治43年(1910)3月24日に岩国尋常小学校を卒業すると、4月に山口県玖珂郡立岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校、以下岩国高女と略称)に進学する。明治32年(1899)4月1日に施行された高等女学校令によって設立された高女は、現在の女子中学生から高校生に相当する年齢の子女のための中等教育機関である。ところが、進学率は約5%であり(明治43年の高女の1年生は全国で1万3126人)、学力と学費の両面で恵まれていないと通学できない、女子エリートの学校であった。

岩国高女は、明治35年(1902)4月1日に山口県玖珂郡立実業補修女学校として創設され、同40年(1907)4月1日に山口県玖珂郡立岩国高女と改称した。そこに千代が通えたのであるから、「宇野酒造」から毎月送られてくる資金がそれなりに高額であったことがうかがえる。

(写真提供:Photo AC)

同校の『校友会誌』を見ると、千代は本科1年生のときに「精勤」(明治44年〔1911〕3月24日の卒業証書授与式において)、本科2年生のときに「成績抜群」「本学年中精勤」(同45年〔1912〕3月24日の卒業証書授与式において)の「褒章」を受けている。本科3年生のときには校友会役員の委員を務めた。真面目な女子生徒の姿が目に浮かぶ。

また大正3年(1914)2月11日の紀元節(現・建国記念の日)に開催された「校内学芸小会」において、本科4年生の千代は、同級生の二宮ヤエと「英語 コロンブス」を披露している。これは原語ではなく、英語の内容を和訳して話したと思われる。「コロンブスの幼年時代のお話し二嬢共に少しも躊躇の色なかりき」と評されている(『校友会誌』第10号、山口県立岩国高等学校所蔵)。千代は大正3年3月24日の卒業時に「高等女学校ノ教科ヲ卒業ス」とともに「英語教育科目ヲ修了ス」という修了証を得ており(「教員履歴書綴」岩国市立川下小学校所蔵)、英語の勉強に努力していたことがわかる。

さらに興味深いのは、同級生の丸岩ツヤと「音楽 楽しき我が家」を披露していることだ。「楽しき我が家」は、イギリスのオペラ曲「埴生の宿」(原題は「ホーム・スイート・ホーム」)の別名である。独唱と共唱を使い分けたと思われるが、その模様は「曲域は高く或は低く進み行くにつれ満座水をうちたる如く私語の声だになかりき」と書かれているから、場内を魅了する歌声であったことがうかがえる(前掲『校友会誌』第10号)。ほとんど知られていないが、千代は松井須磨子や三浦環に憧れて歌手になることを夢見ていた。

当時の高女では制服に女性用の襠(中仕切り)のないスカート状をした海老茶色の袴を採用しているところが多かった。高女に通学する生徒たちも海老茶袴に憧れ、それを穿く女子生徒たちは「海老茶式部」と呼ばれることもあった。

岩国高女でも海老茶色の袴が制定され、生徒はそれを穿いて通学した。ただし、他校の海老茶袴と見分けるため、袴の左右の側面に白線1本を縦に入れ、背面腰部の下縁にも横に白線1本を入れていた。