許されなかった自由恋愛

2人の恋愛関係が学校で噂になると、学校側は放置しておかなかった。「男女7歳にして席を同じうせず」といった男女別学の教育と、良妻賢母という教育の観点からすると、学校が自由恋愛の発展場となることは見過ごせなかったのだろう。千代は校長青木藤吉から校長室に呼ばれ、代用教員を辞職するよう促された。岩国市立川下小学校に現存する大正6年(1917)3月改訂の「学校沿革誌」には、大正5年(1916)3月31日に「依願退職」と記されている。

学校を辞める挨拶をする日に、千代はもう玉田に会うことができないと思うと、悲しくて仕方がなかった。全校生徒たちには表向き、千代が東京の学校に留学するため学校にはいられなくなるという、栄転のような挨拶が予定されていた。

『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』(著:刑部芳則/NHK出版)

この日に千代は、入念に化粧をして、島田髷の日本髪、牡丹の花の刺繍のある半衿を合せた矢絣の着物、紺色の袴という出で立ちで登校した。矢絣の着物は子供の頃に高森の宇野家から貰ったもので、当時は島田や桃割れなど日本髪を結う教員もいたため、決して奇異な姿ではなかった。しかし、「依願退職」せざるを得ない最終日の挨拶に臨むには、いささか華美な恰好と受け取られたのかもしれない。

この姿を見た青木校長は、千代に別室で待機することを命じ、他の教職員や生徒と接触させないようにした。校庭に集められた生徒たちの前で、本当のことではない退職理由が告げられているのが聞えてきたとき、千代は涙を抑えられなかった。この涙には玉田に会えなくなるという思いが詰まっていた。