朝鮮半島に渡る
川下尋常高等小学校の代用教員を辞めると、千代は川下村から川西の実家へと戻った。そしてどこか遠くで生活しようと考えた末、朝鮮半島の京城(現・韓国ソウル)に行くことを決めた。明治43年8月22日に韓国併合条約が調印され、10月から朝鮮総督府が置かれて、当時の朝鮮は日本の統治支配下にあった。京城には岩国高女の国語教師であった大池房代が転任しており、千代は彼女を頼ることを考えた。
出発に際しては人目につかないよう、まだ夜が明けぬ新港から出航した。見送りは継母のリュウだけであった。このとき千代はモダンなゴブラン織風の生地の信玄袋を携えていた。この愛用の信玄袋は、こののち京都、東京、札幌、東京へと持っていくこととなる。瀬戸内海を船で下関まで行き、関釜連絡船で朝鮮に渡り、汽車に乗って京城についたときは夜であった。
大池が世話をしてくれて、出産した教師の家事手伝いの仕事についた。大正5年春には、大池が家庭教師の仕事を紹介してくれた。そこは在留邦人向けの総合雑誌『朝鮮及満洲』を発行している朝鮮雑誌社の社長の家であった。千代は2人の子供を相手に勉強を教えたが、次第に雑誌販売に興味を持つようになる。そして、その販売の手伝いをしたいと申し出て、戸別訪問をして雑誌の予約を取る仕事も行った。
ところが、社長宅で働き始めて3か月が経過したとき、玉田精磨から絶縁状というべき最後の手紙を受け取ったことで事態は急変する。千代は、朝鮮半島に渡ってからも、玉田宛てに手紙を書いて送っていた。玉田のことが忘れられず、時が経てば再び一緒になることができると感じていたのかもしれない。
玉田からの手紙には、「私はこの7月20日附で、広瀬村の学校へ転任になりました。あなたからの手紙は、これまでにもどうかと思っていましたが、広瀬村の学校へは、1通も貰うことは出来ません。私はやはり罰をうけたのです。まだ、この上、あなたから手紙が来たりすると、どんなことになるか、あなたにも分るでしょう。どうか、私を助けると思って、これから後は手紙は、1通のハガキでもよこさないようにして下さい」と書かれていた(宇野千代『或る一人の女の話』)。
教師同士の恋愛問題で処分されたのは千代だけではなかったのだ。この点についても先述の「学校沿革誌」によって驚くべき新事実が判明した。玉田も千代が「依願退職」になったのと同じ、大正5年3月31日付で、川下尋常高等小学校にはいられなくなり、坂上村立坂上尋常高等小学校(のちの岩国市立美和東小学校)へと転校させられたのであった。千代が私小説で記す「七月二十日」と「広瀬村」は虚構である。
学校を去る日に2人は会えなかったため、千代は自分だけが処分を受けたのだと思った。また玉田の手紙でそのことを知ったとなると、彼が転校させられたのは、千代の退職後の大正5年4月の新学期が始まって以降と受け取るのが自然である。しかし、歴史事実としては同年同月同日付で彼にも転校という処分が下っていた。
転居してしまっては文通ができなくなる。もう一度会って話せばわかり合えると思ったのだろう。千代は「田舎へ帰らなければならなくなりました。母が突然、病気だと言う知らせが参りました」と、社長と大池に嘘をつくかたちで岩国に帰ることとなる(宇野千代『生きて行く私』上)。