児童養護施設出身のあずさ
作品を読み解く鍵が生育歴であることを、凝縮して示しているのが翔である。翔はあずさが他界した途端、咲子に懐く。やがて咲子に園田家に入ってほしいとせがんだ。「来て」 。翔は涙を流すこともなかった。奇異な子供に見えたが、あずさによる子育ての影響なのだろう。
あずさは児童養護施設の出身。親を知らない。育ててくれた職員は温かな眼差しを注ぎ続けてくれただろうが、無償の愛を惜しみなく注いでくれる親とは同じものではない。担当職員が辞めると、ほかの職員が後任を務める。翔も咲子をあずさの後任職員のように受け止めたのではないか。
ただし、養護施設で育った人もさまざま。画一的ではない。あずさも生きていたら、これから翔との母子関係を手探りで深めていったのではないか。
結婚とは、違った価値観を持つ男女が新たに暮らし始めること。その価値観は少なからず、親の影響を受けた生い立ちで決まる。最初から完全に一致しているはずがない。寸分漏れなく重なることは最後までないのではないか。だから見て見ぬふりや見えにくいふりをする。
咲子は乾燥機のフィルターが破れたとき、離婚を決意した。充の等身大の姿と、自分の本心が見えてしまったからである。これも比喩だった。
それでも今後の咲子と充はうまくいくのではないか。充は咲子の家を出て行くとき、「行ってきます」と言った。咲子は「行ってらっしゃい」と声を掛けた。ラストシーンで充を迎えるときの咲子は「お帰り」と声を弾ませた。おそらく、充が出掛けてから帰宅までの間隔が婚姻時より長く、長くなるだけだろう。
円満な夫婦や家族を描くだけがホームドラマではない。その時代の夫婦像、家族像の一端を切り取るドラマがそうなのだ。
秘密が露見して家族が崩壊寸前になる『岸辺のアルバム』(1977年)や、嫁姑の確執や禁断愛を描いた『ずっとあなたが好きだった』(1992年)の例を挙げるまでもない。今回は考察的な要素を盛り込んだ点も現代風で良かった。
3作品とも制作はTBS。ホームドラマに新たな風を吹き込み続けてきたのは常に同局である。
