大戦末期、戦艦大和とともに沖縄水上特攻を命じられた駆逐艦響は周防灘で触雷、落後する。乗組員の浦賀少尉は、日本の内海すら米軍の機雷で埋め尽くされた現実に愕然とする。
 戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!


 海上保安庁は、まだ空襲の焦げ跡が生々しい旧海軍省庁舎を使っている。
 松原が航路啓開本部長室の扉をノックすると、「どうぞ」と奥ゆかしい声が返ってきた。入室すると、こんどは執務机の向こうから遠慮のない苦笑を寄こされた。
「なんだ、松原くんか」
「かつて本部長に追い出された部下が、それでもご人徳を慕って訪問しているのです。もっと手厚く出迎えてくださってもよろしいのに」
 海上保安庁の航路啓開本部長を務める村上八郎は、松原が旧海軍で機雷を担当して以来の上司だった。村上は時々の所属で役職名を変えながら、日本の掃海全般を指揮する立場であり続け、松原は村上の部下として働いていた。
 その関係が終わったのは朝鮮戦争勃発の直後だった。
 海上保安庁はアメリカ軍から佐世保と東京湾の日施掃海を命じられた。長官は掃海に不案内であり、ちょっと困ったらしい。航路啓開本部に対して、日施掃海の実務は本部に任せたいが、まつわって今後も続くであろうアメリカ軍との折衝を補佐してくれる人材が欲しい、と要望した。村上に推薦された松原は、こうして掃海担当の長官付となった。
「追い出したつもりはない。松原くんには能力と志望にふさわしい見聞を備えてほしい、と思ったまでだ」
「私の能力では海図に機雷のピンを打つくらいしかできません。志望は打ったピンを抜くこと、それのみです」
「その減らず口で長官を悩ませてはならんぞ」
「言うお方は選んでいるつもりです。用件に入ってよろしいでしょうか」
「どうぞ」
 許された松原は、村上に向かって深々と頭を下げた。
「本部長のおかげで、掃海関係者の公職追放は延期されました。私なりに忙しくてなかなか申せなかったのですが、深くお礼申し上げます」
「いいから頭を上げたまえ」
 言われたままに、松原はひょいと頭を上げる。村上は椅子に座ったまま肩をすくめていた。
「私は公職追放に先んじて退官すると言っただけだ」
「で、余人に代えがたい本部長の経験を知るアメリカの極東海軍がGHQに交渉して、本部長だけでなく旧軍人全員の追放が延期となった」
「と言っても一〇月、今月の末までだ」
「また伸びるでしょう。日施掃海があるのですから。海上保安庁にも熟練の船乗りはいますが、掃海を知っている者は我々、掃海中に死なれても惜しくないと思われていた旧軍人だけです」
「死なれても惜しくない人間などいない。卑下が過ぎると同僚や現場の隊員まで貶(おとし)めることになるから、以後は慎みたまえ」
「はい、慎みます。これにて失礼します、お時間をいただき、ありがとうございました」
 今度はいつも通りぞんざいに頭を下げ、松原は本部長室を辞去した。
 久しぶりにちゃんと顔を合わせた村上は、血色がよかった。以前は胃弱から来る青みが顔に差していたが、近ごろは小康を得ているらしい。まさか俺の減らず口から解放されたおかげではあるまい、などと内心で軽口を叩き、松原は前の上司の健康を祝った。
 執務室へ続く廊下を歩いていると、背後から「松原くん」と声を掛けられた。振り向くと、藤原純雄長官が足を止めぬまま手招きしている。松原は小走りで追いつく。
「極東海軍の参謀副長に呼び出された。きみも同行したまえ」
「日施掃海の話でしょうか」
「たぶんな。だからきみを連れていく。ただ今日はちと様子が違う。詳しい用件は、聞いてみねば分からないな」
 やや小柄な痩身を紺色ブレザー型の制服に包んでいる藤原長官は、文官だから軍人や船乗りらしい風格はない。ただ、運輸畑で累進した官僚にふさわしく、鋭く理知的な雰囲気を常に帯びている。
 なるほど確かに様子が違う、と松原は合点した。庁舎の前には出迎えらしきジープとアメリカ海軍将校が待っていた。いつもの呼び出しなら自分の足でとぼとぼ歩いていくしかない。
 ジープは砂塵を巻き上げ、舗装が行き届かない道を行く。さほど時間もかからず、極東海軍司令部がある日本橋の東京銀行本店に着いた。海上保安庁への出迎えからずっと一緒だった将校が、高層フロアの一角にある参謀副長室の扉をノックし、藤原の来訪を告げて一歩下がる。
 重厚な扉がガチャリと押し開けられる。ラフなカーキ色の軍服を着た参謀副長らしき大柄な男性が、親しげに藤原と握手を交わしながら、その肩に手を添えて入室を促す。まるでホームパーティのホストだな、などと思いながら松原はそっと続く。
 室内は広く、東アジア風の顔立ちをして舟形帽をかぶった若い米軍将校が一人いた。通訳だろう。
「私がアメリカ極東海軍参謀副長、アーネスト・フィールド少将だ。よく来てくれた」
 通訳を介して名乗ったフィールド少将は、まず壁に貼ってある大きな地図の前に立った。朝鮮半島の全図だ。
 仁川に奇襲上陸したクロマイト作戦は、大成功を収めた。呼応して釜山の防衛部隊が攻勢に移るスレッジハンマー作戦も急速に進展し、いまや前線はほとんど北緯三八度線に等しい、などとフィールド少将は戦況を説明する。
「国連軍は朝鮮半島東岸のウォンサンに上陸を敢行する予定だ」
 少将は声色を変えずに続けた。松原は目をすがめ、藤原も気配を揺らめかせた。
 ウォンサン、漢字なら元山と書く。朝鮮東岸の都市で、かつては日本海航路の重要港湾だった。朝鮮半島まで版図におさめる大日本帝国で、海軍将校か運輸畑の官僚をやっていた者なら、名を聞くだけで地図上の位置までぴんとくる。
 藤原は微笑を保ったまま黙している。代わって松原が質問する。
「元山は北朝鮮にある。国連軍は三八度線を超えて北進するおつもりか」
 国連軍は韓国の救援を名目に出動している。言い換えれば、三八度線を越えて北朝鮮領へ侵攻する大義名分がない。だが目下、朝鮮人民軍は交戦の余力もなく、ひたすら後退している。ただ地図上だけに引かれた線を超えるだけで、韓国による半島統一が達成されそうな形勢ではある。誘惑と言い換えていいかもしれない。
「昨日、韓国軍部隊が三八度線を超えている。命令違反ではあるが、北進そのものは国連軍全体にとって既定の方針だった」
 少将はこともなげに言った。
「以前は西の仁川に上陸した。今度は東の元山に上陸し、敗走する北朝鮮軍をさらに揺さぶる。これが今後の作戦方針である。ただし、朝鮮半島の各港湾、航路には、ソ連製機雷の敷設が確認されている。元山も例外ではない」
 やっかいだな、と松原は思った。そもそも機雷は旧ロシア帝国で実用化された兵器だ。機雷戦を重視する伝統は、後継国家のソ連にも引き継がれている。日本はアメリカ製の機雷にずいぶん苦しめられたが、ソ連の機雷も性能で劣りはしないだろう。
「わが軍はいま、全力で元山沖の掃海に当たっている。ただし手が足りない。そもそも開戦時、西大西洋におけるアメリカの掃海戦力は二隊、計七隻にすぎなかったからね」
「日本の掃海隊が啓開した海域の確認掃海(チェック・スウィープ)に必要なフネしか残していなかったと」
 松原の問いに、少将は悪びれず「その通りだ」とうなずいた。
「本国から戦力をかき集めて任務部隊を編成しているが、母艦と支援艦艇をのぞけば、掃海艇は一二隻にすぎない。掃海すべき海域は元山だけではないし、潜水艦や航空機による新たな敷設も懸念されるから、とても手が足りない」
「ご苦労、お察しします」
 藤原長官がいかにも日本人らしい言葉を返した。通訳は言葉を探すように首をかしげてから、「疲れたでしょう」とどこか軽く聞こえる表現で訳した。
「我々は日本掃海隊の実力を高く評価している。ぜひ国連軍の掃海に協力してもらいたい」
 そんな言い回しでアメリカ極東海軍の参謀副長に称賛された日本掃海隊は、任務に対して人員は過少で、装備は古く、船艇も常に不足している。
 ただしアメリカを含む世界中で、最大に近い規模を維持している。それほどの機雷をばら撒かれたためだが、戦前からの蓄積を基礎にして五年に渡って掃海を続けているから、練度も高水準である。
「我が日本政府は支援を惜しまないでしょう。総理大臣からの正式な指示があり次第、憲法と関連法が許す限りのご協力をいたします」
 藤原長官は有能な官僚らしい答えを口にした。占領下にある日本にとって、アメリカの要請は命令であるから、「否」とは言えない。ただし下手な口約束もできない。
「ありがたい。こちらからの要望はひとつ。元山沖に日本の掃海隊を派遣し、航路を啓開してもらいたい」
 藤原はすぐに返事をしなかった。領海外での掃海は長官の一存で実施できる範囲を超えているが、元山沖となれば別の大きな問題がある。
「日本で掃海に携わる、いち職員の私見であるが」
 口を開いた松原はまず、長官の発言ではない、と念を押した。
「元山は交戦地域にあたる。そこでの掃海は、日本の参戦を意味する。おっしゃるご要請は、沿岸警備隊の長官が承諾できることではない。また我が国の憲法は戦争を放棄している。自衛権を巡る解釈には議論があるが、国民一般の理解かつ切実な希望として、他国の戦争には介入できない。かつ日本の掃海隊は、軍隊組織ではないとする根拠法により活動しており、戦争に加わる資格はもとよりない」
 整然と述べたつもりだったが、畳みかけるような早口になった。さすがに松原も昂(たかぶ)っていた。通訳の将校は戸惑いながらも、何とか訳していた。
「きみの言うとおりだ。即答は難しいだろう。まずは私の要請を、貴国のしかるべき上級者に検討してもらいたい」
 フィールド少将は顔色も変えずに言い、続けた。
「ただし要請は変わらない。繰り返す。日本の掃海隊を元山沖に派遣してもらいたい。当行動が貴国にとっていかなる意味を持つかは、私が口を差し挟むべき事項ではない。なお合理性のない回答遅延は許容しない」
「参謀副長」
 藤原長官が言った。従前からのわずかな微笑みのほか、表情に何の意思も示していない。
「ご要請、ただちに政府にて検討を致します。むろん回答は急ぎます」
 フィールド少将は満足げにうなずき、手で扉を示した。退室するなり、藤原長官は深く息を吐いた。
「運輸大臣に報告するいとまも許されんだろうな。これより総理に面会し、直接ご指示を仰ぐ」
 第一生命館の玄関を抜けると、松原は小走りで車道の端に出た。戦争特需の好景気を追い回すように徘徊していたタクシーを捕まえる。一〇分足らずを走って総理大臣官邸に着くと玄関ロビーに駆け込み、係員に面会を申し入れた。
「本日、総理はご予定が詰まっておられます。日を改められては――」
 係員が答えると、追いついてきた藤原長官が応じた。
「長官職をお任せいただいている私は、総理のご指示が必要な重大事と判断して至急の面会を申し入れている。用件は、朝鮮戦争に関連してアメリカ極東海軍から海上保安庁に発せられた要請についてである。この旨だけでもお取り次ぎ願えないか」
 係員はアメリカと聞いたとたんに身を翻し、藤原の口上が終わるのも待たずに飛んでいった。その背を見届けてから、藤原長官は松原に顔を向けた。
「もし要請に応じるとして、何か法的根拠はあるか」
「なくはありません」
 第一生命館からの短い道中で目まぐるしく脳を回転させていた松原は、よどみなく答える。
「占領直後、日本に掃海を命じた連合国最高司令官一般命令第一号において、掃海すべき海域は『日本国および朝鮮』と定められております」
「当時と違い、いまの朝鮮半島は独立国だが」
「面(つら)の皮か肝(きも)の太さで法を解釈できる場合もあろうかと。ただ、日本の戦争協力はソ連が黙っていないでしょう。講和への影響は避けられないかと。また国内においても、新憲法との兼ね合いはやはり不透明です」
 そこへ係員が駆け戻ってきた。
「総理がお会いになられます。こちらへ」
 藤原はうなずき、係員とともに奥へ消えた。急に手持ち無沙汰になった松原は、ぼんやり立ちすくむ。
 やがて藤原の姿が廊下の奥に現れた。急(せ)くような足取りを見て取った松原は、先んじて受付に戻っていた係員にタクシーを頼み、それから駆け寄った。
「総理は、極東海軍への協力を許可された。講和の話が進展している現状、アメリカへの協力は断れない、とのことだ」
 歩きながら藤原は言う。はっ、と松原は短く答えた。藤原の切実な表情だけでなく、事態の重大さが得意の減らず口を許さなかった。
「むろん日本に参戦の意図はない。東側戦勝国に足元を見られてはならず、国内の混乱も回避せねばならん。だから極秘に実行せよ、とのことだ」
 はっ、とやはり松原は応じる。喉の奥に生じた引っ掛かりは、とりあえず呑み込んだままにした。
「私は運輸大臣へご報告に行く。松原くんは極東海軍参謀部に承諾の意を伝え、先方の要求事項を再度、聴取してくれ。要求が明確になれば実施について、村上本部長と打ち合わせる」
「承知しました。車を頼んであります。私は長官をお送りして、そのまま極東海軍司令部へ行きます」
 歩くのが面倒なのではなく、そのほうが早いからです、などとはいちいち言わなかった。
 松原は藤原と玄関の車寄せへ出たが、まだタクシーは来ていない。
 二人して無言で待つ間、松原は考えていた。
 極秘に協力せよとのことだが、可能なのだろうか。海上保安庁本庁の職員ならば、口をつぐむよう指示すれば、まず厳守する。報道機関に漏れたところで、強引な手段になるがGHQに頼めば何とかしてくれるだろう。
 だが、現地へ行く指揮官や隊員にはどう説明するのだろうか。
 ただでさえ命の危険がある掃海を、弾丸が飛び交う戦闘海域で行わねばならない。何のための任務であるかも、ひょっとすればどこへ行くかも、極秘にせねばならないのだろうか。
「くそっ」
 思わず松原はつぶやいた。タクシーはなかなか来ない。藤原長官は黙々と立ち続けている。                   〈つづく〉

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