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二〇二五年 七月(2)
霧との再婚を決めた翌月、久しぶりに初音蘭と会うことになった。
年齢相応に老けてはいたが、大学時代とほとんど雰囲気が変わっていない。人気作家の自信だろうか。全身を硬い鱗で覆われた巨大なワニのような迫力があった。
結婚を告げると、いきなり反対された。
「また結婚? いい加減にしなさいよ。なんで結婚にこだわるの? 制度にこだわるのってバカみたい。事実婚でよくない?」
「事実婚じゃいけないの。法律的にきちんとする必要があるのよ」
霧を看取って「後始末」をするためには、法的な「妻」の立場があったほうが面倒がすくないからだ。
無論、内縁、事実婚でも様々な権利が認められるが、それには証明が必要だ。住民票にそれぞれ「夫(未届)」「妻(未届)」という表記をしたり、およそ三年以上の同居期間が必要になったりする。
霧はこう言った。
「俺は明日発作を起こして死ぬかもしれないし、十年生きるかもしれない。だから、法律的に夫婦になるほうが簡単だし、確実だ」
明日死ぬかもしれない。霧はそうさらりと言ったのだった。
「きちんと、ってなに? 家制度に囚われて苦労してきたのは木綿子でしょ? また、自分で自分の首を絞めてる。全然進歩してないじゃないの」
「最初の結婚は上手くいったとは言えないけど、否定するつもりはない。今度の結婚はいろいろ考えてのことだから」
「もしも、もしもよ。あなたが先に死ぬと、財産の半分は向こうに持って行かれるのよ。じゃあ、麻子ちゃんはどうなるの? お父さんだってまだ生きてるでしょ? 歳取ってからの結婚って好きなだけじゃ無理よ」
「私の財産なんてほとんどない。家の名義だって父のままだし。私が白鳥さんより先に死んだら、父の財産は代襲相続で麻子に行くわ」
「白鳥って男が口を出してきたら? とにかく籍なんか入れたら問題が起きるだけよ」
「……それでも私は白鳥さんと結婚するの。二人で話し合って決めたのよ」
ふうーっと大きな息を吐き、蘭は笑った。
「なんで私が笑ってるかわかる?」
「私が愚かなことをしようとしているから?」
「それもある。でもね、あなたがとっても素敵な小説のネタだからよ」
思わず蘭の顔を見た。彼女は眼を輝かせ、ぐいっと顔を寄せてきた。
「だって、眼の前に素晴らしい毒親がいるのだもの。是非、今度の小説に登場させたいわね」
「その言い方、失礼じゃない?」
「失礼は承知してる。それが小説家ってものだから」
「開き直るつもり? 他の小説家に失礼じゃないの?」
「確かに。じゃあ、言い直すわ。それが私だから。それで、あなたは自分が毒親ってこと認めるの?」
「……ええ。認める。でも、私はあなたみたいに開き直るつもりはない」
「そう。開き直るつもりはないけど、悪いとわかっているのに毒親であり続けるつもりってことね」
「そんなこと言ってない。確かに私は娘に負担を掛け、辛い思いをさせた。謝って済むことではないとわかっているけど、それでも娘に償いをしたいと思ってる」
「思ってるのに? ねえ、娘さんはまだ引きこもっているんでしょ? 彼女は長い間、あなたやあなたの父親の犠牲になって、本来あるべき子供時代を送れなかったのよ。だから、今、もがいている状態。それがわかっていながら、あなたは母親であるよりも女であることを優先させる。そうでしょ?」
本当に上手に痛いところを突いてくる。彼女は私の弱点を責める、情け容赦のない素晴らしい鏡だ。
「娘も男も愛している。どっちにもいい顔をしたい。そういうことよね」
「いい顔をしたいなんて思ってない」
「でも、悩んでる。本当は迷いがある。違う?」
「……そう。迷いがないと言ったら嘘になる」
蘭が急に優しげな口調で語りかけてきた。
「ねえ、木綿子はその人のこと、本当には愛してないんじゃないの? だって、母か女か、なんてことで悩むんだから」
「母か女か、なんてことで悩んだつもりはないけど」
「その男のことを愛しているなら、子供を捨ててでも男を取るはずでしょ? 木綿子は母である前に女じゃないの? 母なんて後付けの身分、自称に過ぎないのよ? 迷いがある段階であんたの愛は偽物なのよ。要するに、心の底から男を愛したことがないの」
「私の愛は偽物かもしれない。真実の愛じゃないかもしれない。でも、私は母である前に女である、なんて言わない。私は母でもあり女でもある。どちらかを否定することなんてできない」
「愚かな価値観ね。子供を産んで賞賛されたいの? 母親であることがそんなに偉いことなの?」
「偉いなんて思ってない。でも、私は子供を産んで母になってしまったの。だから、母でなくなることはもうできない。それに、さっきも言ったように、母であることと女であることは決して相反するものではないと思っているから」
「ずいぶん綺麗事よね。両方のいいとこ取りをしたいの?」
「ねえ、どうしてそんなに母と女で対立させたがるの? 母であり女である。ただそれだけのことなのに」
すると、蘭はきりきりと眉を吊り上げ声を荒らげた。
「じゃあ、もし、眼の前で死にかけている男と娘がいたとき、あんたはどっちを助けるの?」
ふいに無力感に襲われた。くだらない質問だ。なぜこんなことを得意げに語る?
「娘よ。決まってる」
「ほうら。あんたは男のことを本当には愛していないの。母親であることに囚われて人を愛することをできないの」
「違う。私の愛する男は……白鳥霧はわかってくれる。助けなかったことで決して私を怨んだりしない。彼は迷いなく言う。娘を助けろ、と。私は迷いなく娘を助ける」
「男を見殺しにして後悔しないの?」
「後悔する。一生後悔する」
「自分の言っていることが矛盾しているって自覚ある?」
「私は矛盾だとは思わない。ねえ、さっきから質問ばかりね。そんなに私のことが気になるの?」
すると、蘭が大げさに噴き出した。
「まさか。やめてよ。木綿子は自由に生きたい女の足を引っ張ってるの。わかってる?」
「母であることよりも女であることを優先すれば賞賛されるの? 蘭はそれが正直な生き方だと思ってるの?」
「賞賛? 私は自分に正直に生きたいだけ。賞賛なんか求めてない」
「賞賛という言葉を最初に使ったのは蘭でしょう?」
蘭は一瞬黙り込み、眉を寄せた。それから、まるで子供に説いて聞かせるように話しはじめた。
「あのね、木綿子は子供を言い訳に使ってるの。古今、大成した女性の芸術家やら科学者やらは子供よりも自分の仕事を優先してきた。でも、彼女らには子供を犠牲にするつもりなんてなかったの。……眼中になかっただけ。だから成功することができたのよ」
「成功なんかしなくていい。どうやったって子供が私の眼中から消えることはない。そのことを賞賛されたくもないし非難されたくもない」
「そんなの逃げよ。そういう女がいるから女は認められないの。あんたは女の敵」
「敵でもかまわない。正直に生きるのが正しいのなら、私は自分に正直に生きる。蘭には気に入らないだろうけど」
「臆病者の開き直りね。じゃ、はっきり言うわ。あんたは逃避してるだけ。お父さんの介護、大変なんでしょ? その現実から逃れたいだけ。そのために愛とやらを持ち出してる」
ああ、昔からだ。彼女は私の心を揺さぶるのがとても好きだった。ほんの小さな、でも誰の眼にも見える瑕疵(かし)を大声で指摘し、叩きのめすのだ。
「そうね。私はずっと逃げ出したかった。だから、愛ではなくて逃避だと言われても仕方ない。でもね、蘭。私たちはそれでも一緒になりたいの」
「あなたは家庭に閉じこもって暮らしてるから視野が狭いのよ。まあ、介護っていう事情があるから同情はするけどね。でも、もっと世の中を知るべきよ。そして、広い視野を持って生きてみたら? このままじゃ後で痛い目に遭うのはあんたよ」
「ねえ、蘭。どうしてそこまで私たちのことを気にするの? 広い視野があればこんな片隅の愚かな女と男のことなんか気にすることなんてないんじゃない?」
「さっきも言ったでしょ? 私はあんたみたいな女が大嫌い。あんたみたいな女がいるから、女性は見下されるのよ。介護疲れの逃避からの熟年恋愛? ドラマに出てくる欲求不満の主婦でしかないの」
不思議だ、と思った。ここまで悪し様に罵られても動じていない。いつの間にこんなに強くなったのだろう。
「許してもらわなくていい。いくらでも嫌ってくれて結構。愛でなくて逃避でもかまわない。世間も客観的な視点も必要ない。私はあの男と一緒になる」
もっと高らかに宣言するべきだったのだろうか。でも、彼女の耳には、私の声はいつもと変わらず、きっと途方に暮れたように届いただろう。
「結局、あんたはなにもかも中途半端。男を愛することもできないし、娘を守ることもできない。いずれ、男は自分を選んでくれなかったことに気付いてあんたの許を去るだろうし、あんたの娘は自分を選んでくれなかったことを怨んで傷つき、立ち直るきっかけをなくして人生を駄目にしていく」
それは最悪の予言だった。みなが幸せになるより、蘭が口にした最悪の予言が成就する可能性のほうがずっと高いような気がした。
私の人生において、最初に最悪の予言をしたのは父だった。進学を希望するとこんな予言をした。
――勉強する女はかわいげがない。女は黙って男に従っていればいい。
亡夫と結婚すると決めたときはこうだった。
――小説家志望なんぞ碌(ろく)な男じゃない。あれと結婚したらおまえは絶対に不幸になる。
父の予言は当たったのだろうか? 客観的には当たったように見えたとしても、私はそれを認めたくはない。自分の未来は自分で予言する。そして、その予言を信じる強さを持たなければならないのだ。
「男は決して私の許を去らないし、娘とはきっとわかりあえる。蘭の言ったふうにはならない」
蘭が大きなため息をついた。心から憐れんでいるようだった。
「そう。そこまで言うならもう私から言うことはないわ。かわいそうに」
「今日はありがとう。蘭」
嫌みではない。彼女はきっと彼女なりに私のことを思っているのだ。彼女の価値観では私は家父長制の犠牲者で、哀れで惨めな臆病者なのだ。
後味の悪い別れ方をしたが、それほどまでのダメージは感じなかった。私は強くなったのだ、と改めて自分に驚く。霧との出会いはたんなる逃避ではない。私を確実に強くしてくれた。
だが、家に帰ると現実が待っていた。
