クーデターの技術』(クルツィオ・マラパルテ ・著/中公文庫)

インフラとテクノクラートを掌握できれば革命は成功する

マラパルテはイタリア・トスカーナ地方のプラートで、ドイツ人の父とイタリア人の母の間に生まれた。1914年に志願兵としてフランス軍に入隊し、第一次世界大戦に従軍した。戦後、イタリアに帰国して、1922年にファシスト党員となり、ムッソリーニのブレインになったが後にムッソリーニと対立し、ファシスト党から去った。

1933年から34年にかけてはリパリ島に追放処分となった。その後は、ジャーナリスト、小説家として活動し、『壊れたヨーロッパ』(1944年)は戦争文学の傑作として現在も読まれている。アンティファを含むアナーキストに魅力的なのは、マラパルテが『クーデターの技術』(1931年)で展開した、革命の技術論だ。

マラパルテは、1917年11月にボリシェビキ(ソ連共産党の前身)が革命に成功したのは、大衆を動員することに成功したからではなく、国家の神経系統である電気、水道、通信(電信・電話)、鉄道などのインフラとそれを運営できるテクノクラートを掌握できたからと考える。この技法を身につけていたのは、レフ・トロツキーだけだった。

〈クーデターの前日、トロツキーは、ジェルジンスキー(引用者註*後の非常委員会[秘密警察]議長)にこう語った。「赤衛軍は、ケレンスキー政府の存在を考慮に入れてはならない。機関銃で政府と闘っても大して意味はない。大切なことは、国家権力を奪取することだ。戦術的な観点からみれば、共和国評議会、各省庁、ロシア国会は、武装蜂起の対象としては、まったく意味がない。国家権力の中枢は、政治・官僚機構、つまりトーリッド宮殿、マリア宮殿、冬宮にあるわけではなく、国家の神経組織、すなわち発電所、鉄道、電信・電話、港湾、ガスタンク、水道にある」。

だが、ジェルジンスキーはこう答えた。「蜂起の際は、敵の先手をとって敵の中に攻め込み、敵陣で敵をたたかなければならない。われわれが攻撃の対象として選ぶものは、やはり政府でなければならない。敵が防衛体制を構築したその場所で戦闘を開始すべきだ。敵が、内閣、マリア宮殿、トーリッド宮殿、冬宮に集中的に防衛隊を配置するというならば、戦闘はそこで行われなければならない」。

そしてジェルジンスキーは、こう結んだ。「国家権力を奪取するためには、労働者大衆によって組織された大部隊を政府に差し向けなければならない」。〉(クルツィオ・マラパルテ[手塚和彰/鈴木純訳]『クーデターの技術』中公文庫、2019年、115~116頁)

ロシア革命の指導者だったウラジーミル・レーニンは、ジェルジンスキーと同じ考えをしていた。レーニンの見解は革命委員会の方針に端的に表れていた。

〈革命委員会は労働組合が中立的な立場をとっていることを考慮に入れて、その戦術をたてていた。革命委員会は、ゼネ・ストによる援助なしで、国家権力を奪取できるのだろうか。党中央委員会及び革命委員会は、こう答えるだろう。「否、ゼネ・ストを待っているのではなく、労働者大衆を反乱の渦の中に巻き込み、ゼネ・ストの気運を盛りあげなければならない。今必要なのは、労働者大衆を反乱やゼネ・ストに誘導するための戦術なのであって、一揆主義的なクーデター戦術ではないのだ」。

だが、トロツキーはこう答える。「ストライキの気運を盛りあげる必要はない。ストライキよりも、ペトログラードに氾濫している混乱の方がはるかに有効なのだ。現実に、この混乱のために、国家の機能は麻痺状態に陥っているし、政府が反乱を防止しようとしても、ほとんど不可能に近い状態だ。ストライキを打たずに、この大混乱を利用しようではないか」。

この間の事情に関して、トロツキーの戦術が、あまりにも情勢を楽観視したものであったがために、革命委員会の支持が得られなかったと説明する人もいる。だが実際には、トロツキーは、かなり悲観的なものの見方をしていた。この時の状況にしても、人が考えているよりもはるかに深刻に受けとめていた。

だからこそ彼は、民衆を信頼せず、ほんのひと握りの人間達によって蜂起を起こそうと考えていたのだ。労働者大衆を政府に対する武装闘争に巻き込みながら、ゼネ・ストを呼びかけるという考え方は、彼にとっては幻想にすぎなかった。

ほんのひと握りの人間達が参加してこそ、初めて蜂起が可能になるのだと考えていた。彼は、もしゼネ・ストが起これば、それは間違いなくボリシェヴィキに敵対するものになるだろうし、このゼネ・ストを避けたいと思うなら、直ちに権力を奪取しなければならないと確信していた。〉(同前、116~117頁)