えんらく軒
大正11年(1922年)25歳、札幌より上京、『中央公論』に「墓を発(あば)く」を発表と年譜に記されているが、その前年すなわち大正10年1月、時事新報の懸賞小説に応募当選したのが「脂粉の顔」であって処女作、すると『中央公論』の「墓を発く」は第二作品らしく思われる。
その当時、年代に記憶はないが滝田樗陰が私の家に来て原稿要談の後に本郷のえんらく軒という西洋料理店に、藤村千代という女性が勤めているが、話してみると小説が書けるらしく、今夜も飯を食いに行くが書けたら書かして見る心算(つもり)だ、久米正雄も来るらしいが頗る美人だと滝田は言い、その話があってから半年後かの(その記憶は確かではない)『中央公論』に小説が掲っていたが、それが「墓を発く」という作品らしい。
その当時このえんらく軒には芥川なぞもよく行ったから、大正6年の芥川、久米、滝田等を識ると記された年譜によると、彼女がえんらく軒に勤めていたのはその年代らしい。
私もたしか芥川とえんらく軒に食事に行った折は、もう宇野さんはやめた後であった。
