ヤマザキマリさんの新刊『たちどまって考える』(中央公論新社刊)

松田聖子のようなアイドルが今生まれないのは

ではなぜ今、松田聖子のような多元的な”歌唱弁論力”をもったアイドル歌手が生まれないのでしょうか。

まず現代の傾向として、アイドルの形がAKB48などに代表されるようにグループへと変遷したことがあります。ソロからグループへの推移は、アイドルに限らずほかの分野でも見られることで、時代の移り変わりを非常によく映していると思います。

まず、かつてのアイドルのように一人でステージに立つ場合、その歌手は「絶対に間違えられない」という緊張を一身に纏います。ソロで活動していれば、人の求める期待に応えなければならない、というプレッシャーをすべて一人で背負わなければならないわけです。言わば昭和のアイドルたちは、そうした経験を積んできた人たち。同じような緊張感を強いられる仕事は、ほかに政治家か単独競技のアスリートくらいかと思います。

ところが今では、大勢のグループで歌い踊るスタイルがアイドルの主流です。誰かが歌詞を間違えても一人で歌っているときほど目立ちませんし、メンバーのほかの誰かがフォローしてくれるかもしれません。言わば責任分散型ですね。リスクヘッジがよく利いています。

しかし、ここがカリスマ性をもったアイドルが生まれるか否かの分かれ道なのです。

責任を分散できるグループでは、それぞれがステージ上でやらかす失敗を背負う度合いもいくらか薄らぎます。街中を歩いていて一人で転ぶのと、仲間と一緒のときに転ぶのとでは、恥ずかしさの度合いが違う、あの感覚と同じでしょう。

昭和のアイドルは人前でとんでもない恥をかいても、一人でそれを回収しなければならなかった。ちょっと目立つようになればバッシングを受け、カミソリ付きの手紙を送られたりといったリスクがあるかもしれない。彼らのなかには、一般社会で普通に生きていては感じることのない緊張感や恥辱、そして不安といった様々な感慨がたっぷり蓄積しているのです。そして、そうした感慨のスパイスを調理に生かすスキルが、人々を魅了する存在になれるかどうかの決め手なのかもしれません。

私自身は松田聖子さんを直接存じ上げませんけれど、歌謡曲をとことん嫌悪していた私の母が、「松田聖子さんは好きだ」と言っていた理由が、今回の”自粛アイドル考察”でわかったような気がしました。